【釣り部・観る】那珂湊(その2)  結城座(マリオネット劇)  「ペレアスとメリザンド」  カネシロー逮捕?

 昨日は帰宅して疲れを感じたので昼寝をしたものの、なかなか疲労感がぬぐえなかった。釣果をブログで知りたい旨の要望を感じてはいたものの、そんな元気はないので夕食後すぐに寝ようとしたら、BSプレミアムの演劇の録画放映で懐かしい結城座の「ペレアスとメリザンド」を取り上げるという。疲れていても観るだけならダイジョブだろうと思って途中からでも見始めた。結城座は江戸時代から続くマリオネットで、役者は人形を操りながらせりふを言うのが特色(結城座ではない山口小夜子はせりふだけの参加)。結城座は吉祥寺に本拠地があった学生時代から何度か観に行ったものだけど、人気があってイスも無い所にギュウギュウつめに座らされて冷や汗が出たこともあったナ。

 「ペレアス~」とくればメーテルリンクの原作をオペラにしたドビッシーの曲が有名であり、シベリウスシェーンベルクなども曲を付けていてそれぞれの演奏は録音・録画済みながらもストレート・プレイの録画は無い。結城座に対する関心も薄らいでいるので録画するまでの気持も起きないから(などと言うと一橋大卒で結城座の職員として働いている◎◎さんに申し訳ないけど)、観るだけのつもりだったけどいつしか眠っていた。気付いたら「ペレアス~」が終っていて次の演劇、伊坂幸太郎作「死神の精度」の再放送をやっていた。興味も無いし、途中から見たので一段とツマラナイ作品だったネ。

 

 ともあれ眠ったお蔭で少しは元気になったので、そのままブログに釣果報告だけを記したのが「(その1)」だヨ。記す余裕が無かったエピソードとは、ユウ君の運転で八重洲で拾ったカネシローを後部座席に北に向かったのだけど、三郷の入り口で交通警察から止められて脇に導かれたのでユウ君とボクはビックリ!!! 何ごとかと思ったら、後部に座っていたカネシローが安全ベルトをしていなかったのが理由だった。それも口頭注意ですぐ済むと思ったら、罰金は見逃すけれど交通違反で1点減点すると言う。警察官の言葉に栃木・茨城特有のイントネーションを感じたら、対応したユウ君の証言によると漫才のU字工事の福田にソックリな警察官だったと言う。ユウ君は福田に向かって、

 「これは八重洲で拾ってきたゴミだから、安全ベルトなど不要なはずだ。」

 「これは人形(ダッチ・ボーイ)だから、安全ベルトなど不要なはずだ。」

 「罰金とるならコイツからとってくれ!」(罰金は不要だった)

等々と食らいついたけど、1点の減点は免れることはできなかった。ユウ君は5年間無事故だったのでゴールド免許証を獲得したばかりなのに、カネシローのお蔭で純白(純金)の免許状にキズが付いたとひどく落ち込んでしまった。その後の那珂湊への車内は、沈黙が続く陰鬱な雰囲気のまま救い難いものだった。ユウ君としては、減点ではなくカネシローを逮捕して連れて行ってもらった方が良かった! という気持だったのに違いない。

 というわけで、皆さんも後部座席とはいえ安全ベルトをするのをお忘れなく!

 

@ 記事の後半にいちじるしく事実と異なることを書いてしまいました。カネシロー君には申し訳ないながらも、それが彼のレゾン・デトル(存在理由)ということで、皆さんも笑って済ませていただければ幸いです。

 

【見る】100分 de 名著  三島由紀夫「金閣寺」  平野啓一郎

 今夜から平野の「金閣寺」論が始まる(再放送は水曜早朝と昼の2回)。平野の小説はヒグラシゼミで議論を楽しんだばかりだけど、小説のみならず文学評論でも切れ味を発揮する才能だ。殊に三島については詳しいことは、テレビ番組でも証明済みだ。宮本亜門瀬戸内寂聴などのシロウトの薄っぺらな発言に抗するように、真っ当な分析と論理を展開していたので「100分」は十分期待できる、おススメです。

 個人的には『シドクⅡ』に若書きの「金閣寺」論も収録したので、平野がどんな《読み》を提示するのかとても気になっている。20代初めに書いた昔のものながら、平野と比較されても存在価値がなくなるとは思えないと本人は自負しているけれど、両方を比べた意見・と批判をもらえれば嬉しいネ。

【釣り部】釣果ほぼゼロながらも、エピソード満載(その1)

 稚アユが遡上済みで釣れなかったのは予想どおりだったけど、釣り部常連4人ともゼロという結果になるとは想定外だったネ。後から合流する3人と一緒に天ぷらを食す楽しみは、はかなくもついえ去った。でも釣りに合流したツクホーシとフニャの2人が意外に熱心に釣っていたのも嬉しかったし、唯一の女性参加者のピリカも含め、相手を換えながら「積もる話」を語り合ったヨ。魚の釣果は無きに等しいながらも、重層した楽しい時間はたくさん釣れたというしだい。

 稚アユの次に狙ったシャコも釣れず(以前は数人で5尾くらい釣れたのに)諦めていたところ、意外性の男(?)アマッチがとうとう大き目のをゲットした。2尾目が続かず、代わりに食べることができる大きさのマハゼが2尾釣れたのは珍しい(アマッチとツクホーシ)。あとはメゴチ1尾だけをカネシローが釣ったけど、この1尾がカネシローの存在感を表象しているようだった。

 予定を上回る4時まで、竿を片手に(実際は置き竿にすることが多いのが失敗の元)楽しく盛り上がったのは、皆さん別れがたかったのだネ。

 

 奥松島でカネシローの竿が目の前で海中に引き込まれて行く様子はユウ君が撮った録画で楽しめるけど(ユーチューブでアップしているとか言ってたヨ)、今回は皆でそろってシャコねらいで投げて置いてあった5本ほどの竿のすぐ前に、小型の船が通って行く際にスクリューで釣り糸を巻き込んでしまい、なぜか狙ったようにボクの竿2本を運び去ろうするところだった。よくある事故で以前ボクも(館山で)ユウ君も(伊豆で)やられたことがある(ボクのはボートが気付いて返却してくれた)。今回は2本の中の1本はリールが岸に引っ掛かったお蔭で助かったけど、もう1本は浮かんだままで岸から遠ざかるだけだった。諦めかけていたところに別の大き目な船がスクリューに巻き込んで行ったらしく、竿の姿が消えた。その船が着岸するところまでツクホーシと2人で追いかけたけど、竿の姿を見ることはできなかった。ボクは諦めて戻ったけれど、ツクホーシが浮き上がった竿とそれを引き寄せようとしてくれた釣り人たちに気づき、竿の救出劇の顛末を見た上で竿を片手に戻ってきたのはまさに奇跡というほかない。

 アカの他人の窮地を救うべく協力してくれる釣り人には感銘を覚えるものの、一方でボク等の傍の2人だけで釣り場を占有しているマナー知らずの釣り人をはじめ、危険な釣り針などのゴミを放置して去るシロウトも多いのも「頭痛のタネ」だ。釣りの楽しさを多くの人に知ってもらいたいものの、後片付けをしない恥知らずも少なくないのが現状だからネ。

 

 2日目は宿から徒歩5分くらいの阿字ヶ浦海水浴場で、ボク1人朝方エサをゲットしていざ釣ろうと思ったら朝食の時間になってしまったので虚しく引き上げた。しかし土地の人たちが言うように、カレイの釣れそうな所なので次ぎが楽しみ。朝食後は磯崎漁港で始めたけれど、磯あり浜ありで理想的な釣り場に見えたので4人とも期待を胸に釣り始めたものの、予報どおりに雷の音がしたので釣り部長・ユウ君の指示で早めに切り上げた。夕方まで楽しむつもりが釣果無しで午前中で止めたのは残念ながらも、雨もふりだしたので適切な指示だったネ。ユウ君も言うように、来年はこの漁港で5目釣りを楽しみたいネ。

 

【釣り部】1・2日、那珂湊・阿字ヶ浦

 明後日から1泊で恒例の稚アユ釣りに、那珂湊などへ行きます。1泊するのは結局常連の4人だけとなりました。

 1日は那珂湊で稚アユ釣りなどをしながら、日帰りで合流する3人(ダンちゃんも来れば4人)と稚アユの天ぷらを楽しみたいのですが、例年稚アユの遡上が早まっているので釣果は乏しいかもしれません。それでも7人で楽しい時間を釣りたいと思います。

 2日は宿の近所であり、高速道路へも入りやすい(帰りやすい)阿字ヶ浦で五目釣りをする予定です。

 

@ というわけで、この2日間はメールをもらってもすぐには返信できませんので悪しからず。

【読む】橋田寿賀子  宇佐美毅  山折哲雄  安楽死  

 今日(28日)の朝日新聞の「耕論」のテーマは「橋田さんが遺したもの」で、橋田寿賀子のドラマについて3人の識者が論じている。ボクはテレビ・ドラマは興味のある大河の時しか見ないから、橋田ドラマについてはまったく知らない。橋部敦子という脚本家の言うところをボクなりに言い換えれば、向田邦子が純文学だとすれば橋田は大衆文学といったところかな。向田作品については、同時代では見なかった「阿修羅のごとく」という作品の再放送を見て、あまりに良くできているので驚いてブログに記したことがある。

 宇佐美毅さんが「おしん」と「渡る世間は鬼ばかり」は、それぞれ昭和と平成という時代をよく現していると論じている。ドラマを見ていなくても趣旨が伝わってくる分析だけど、宇佐美さんは学大卒から東大大学院の博士課程を修了した研究者である、ということは知っておいてもらいたいネ。山田有策先生の薫陶の下で明治文学(20・30年代)研究にいそしんだ成果を『小説表現としての近代〉』(おうふう、2004年)という大著にまとめている。千田洋幸先生と一緒に『村上春樹と一九八〇年代(以下、九〇年代・二十世紀と続く)』(おうふう)の3冊を編著している人、と言えば分かるかもしれない。

 一方で『テレビドラマを学問する』という著書もあり、フジテレビの番組評論のコメンテーターとして出ているのを見かけたこともあるくらいのドラマ好きのようだ。ドラマに関心が無いボクにも贈っていただいたけれど、猫に小判のままだネ。宇佐美さんとくればドラマでもハルキでもなく、やはり《明治文学》の研究者のイメージが強烈だネ、こちらが無知な分野のせいもあるかもしれないけど。

 

 ついでながら、もう1人の論者は山折哲雄という哲学者だけど、ドラマ分析ではなく安楽死つながりで橋田との共感を語っている。「安楽死で逝きたい」という文章を読んで「同志」のように思い、自分が死にそうになった時に延命治療と食事を断って自然死を望んだものの、現代医療の恩恵で死にそこなってしまったと言う。現在の微妙な心境をそのまま吐露しているけれど、とても興味を引かれるネ。

【読む】綾目広治『小林秀雄 歴史のなかの批評』について、その4

 この本の感想が長引いたまま完了していないのを時々思い出しながらも完結できないのは、持ち前のグズが主因だろうけど、やはり綾目さんの小林論であることに興味を覚えないからかな? 高階秀爾ゴッホの眼』に刺激を受けたのは前に記したけど、それを契機に『近代絵画』のゴーギャンの章を面白く読んでいた(小林が面白いのではなくてゴーギャンが面白いのだけど)。次に『近代絵画』のどの章を読もうかと考えた時、綾目さんの書を思い出してピカソの章を読み始めてはいる。小林とピカソではやっぱりミスマッチだから、面白いはずがないと思いながらネ。綾目さんの論(第十章が『近代絵画』の章で、「ピカソ論について」と副題されている)もそれ以外のことを言っているとも思えないから、内容については触れない。

 第6章「ドストエフスキー論」についても同様な印象を感じているので内容には立ち入らないけど、綾目さんが佐藤正英という人の論(未読・未知の人)や森有正の論に共感しているようなところは感心しなかった(殊に前者)。

 

 第9章「戦後の社会時評」に至っては、冒頭に「関谷一郎」の名が出てきてドキッとしたけれど、拙著『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』から

 《戦後の小林の批評は昭和十年代後半から地続きでありそこには本質的な変化、あるいは〈成熟〉と呼ぶべき新たな展開は指摘できない》

 と引用して「関谷氏の言う通りである」としつつも、関谷とは異なり小林を外側から眺めて批判を加えている。

 《(小林は)「反省なぞしない」と言うことによって、結局はあの戦争を肯定、少なくとも容認していることになるのである。》

 《おそらく小林秀雄は、戦争がもたらしたものをできる限り小さく見積もろうとしていたと考えられる。》

 小林秀雄に限らず、文学者の言動を外側(社会的視野)から批判するのは誰でもできる簡単なことで、そうしたところで対象(文学者)の文学の核心を突くことはできない。小林にしたところで、綾目さんが期待(想定)するような確固とした〈思想〉など持ちえなかったのは、取り立てて言うまでもない。「結局は~なるのである」という批判の仕方は何にでも言えてしまうので、インネンを付けるだけに止まるだろう。「小さく見積もろうとしていた」とはゲスの勘ぐりに類するもので、小林を引き下げると同時に批判する己をも引き下げるだけだ。それ等の言い方はいずれにしろ不毛(言っても無駄)に終る、というのがボクの考えだ。

 詳細は拙著に展開したので(参照してもらいたいけれど、)くり返さない。

 

 第7章「歴史論―-京都学派との共振」と第十一章「未完の『感想』」は綾目さん得意の思想論なので、田辺元をはじめとする京都学派や未完に終わったベルグソン論について何の知識も無いボクが口をはさむのは控えたい。先行論はあるけれど、綾目さん独自の切り口も当然あるだろうから、それを楽しめるのは確かだろう。

 第1~5と8章(全部旧稿)は未読だし、今やまったく関心の無い時期の小林を論じているので、綾目さんの論とはいえ読む気が起こらないのでスルーしたい。

 ともあれ、小林秀雄について論じたものを読みたい人には、安心しておススメできる書であることは間違いない。オソマツな小林本が氾濫して危険だからネ。

【見る・観る】ブスな林真理子がバカなわけ  「英雄たちの選択」のプロデューサーは猛省せよ!  小木博明・グローバ

 「英雄たちの選択」にまさかの林真理子が現れ、極めて迷惑したことを記したけど、ブスのみならずバカだと言ったのに理由を書き忘れてしまった。ナイター中継にコマーシャルが挟まれたので「英雄たちの選択」に換えたら、まさかのドブスが写ってたのでビックリしたのだネ。見るだに吐き気がするのに、心がブスだから無知なのに発言したがるのだナ。《(徳川)慶喜と(島津)久光は似ていると思う》などというトンチンカンな思いつきを言うものだから、磯田道史さん他のコメンテイターが驚いて迷惑そうな表情をしていたネ。 

 最近の大河ドラマでも慶喜の捉えどころの無さが強調されているけれど、屈折した性格ながらそれが慶喜の聡明さの現れでもあり、非常時の日本をソフト・ランディングさせる意図で大政奉還などという離れ業をやってのけたのだネ。事実に即した描き方だと言えるのじゃないかな。久光と言えば、兄の斉彬と比べながら愚鈍さが強調されてきたくらいだけど、実際は古典文学などの素養もあったとか。それにしてもいきなり藩兵1000人引き連れて上京して薩摩藩の武力を京都の人々に見せ付けるなど、斉彬なら絶対やらない無茶・暴挙をやってしまうのだから、決して聡明とは言えない。慶喜からも酔った勢いで「薩摩の芋」呼ばわりされたのは、ドラマでも出てくるのじゃないかな。

 ブスがあまりにもバカなこと言うものだから、MCの杉浦アナも指名を避けながたまにドブスにも振るという苦心ぶり。お蔭でブスのバカな発言が少なくて済んだけど、ブスの登場場面を録画から消去するのは簡単ながら、他の人が写っている時にブス発言があるので消去が難しかったヨ。好きな番組なのにまったく迷惑なゲストを呼ぶものだから、番組を見る意欲が殺がれるネ。何ごとも《量より質》(イチロー語録)が大事なのだから、プロデューサーは視聴者を増やそうとして番組の質を落とすようなことをせず、真っ当なゲストを呼んで噛み合った議論をさせてもたいたいネ。

 イチローは怒っている!

 

@ これを書きながら「ぶらぶら美術館」(BS日テレ)で渡辺省亭を取り上げているのを録画しているのだけど、これも好きな番組の唯一のジャマ者である小木博明おぎやはぎ)の発言の仕方が変っている印象だったネ。今までのように恥知らずなバカ発言を控えつつ、声を抑えながら他の発言者の言葉をマネしてくり返すようになったと思った。小木が評価できるのは、林真理子とは異なりバカ(ブス)を自覚していること。小木に望むべくはできれば番組から降りてもらうこと、それが無理なら可能な限り発言を控えることだ。

 ちなみに渡辺省亭を、朝日新聞の4月27日の夕刊で取り上げているけど、テレビ番組で紹介された多彩な面は伝わらないから、再放送を期待するのだネ。もっとも、これだけの画力のある画家だから、他の美術番組(例えばNHKの「日曜美術館」など)でも取り上げることだろう。スゴイよ、見るべし!

 

 ジャマ者といえば、美術番組「アート・ステージ」(東京MX)が終ったネ。目先の美術展に注目するよりも、美術史重視の番組作りをしていてとても勉強にもなっていたのだけど、前にも記したけどMCとしてグローバーなるのが登場するようになってからは、不愉快な思いを強いられるようになった。小木ほどバカじゃないし美術の知識もあるのだけど、恥じらいもなくべらべらしゃべるので不快でジャマな存在だった。以前の「美の巨人」と同様に、番組を親しみやすくする意図が不要な夾雑物を持ち込むことになってそれが目立つのだネ。素直に美術を楽しませてもらいたいのに、余計なもので神経を逆撫でするのだナ。