「虞美人草」第一回

ケッタイでツマラナ〜イ小説に入りました(3回予定)。
でもレポのリューマンの実力と頑張りによって、それなりのレベルの議論ができた感あり。
レジュメは小野の人物論で、<負のスパイラル>に陥った小野の<愛される自己の希薄さ>を読むところは説得力を感じた。
ミンコフスキーの<生きられる自己>という概念(ターム)を使い過ぎている印象であり、<影>というタームもユングの概念とは少々ズラして使用している点も、気にはなったが言いたいことは伝わってきて刺激された。
<藤尾殺し>を登場人物達の<イニシエーション>として抑えるのは面白いが、小野が「真面目」を標榜する<新しい共同体>に参加して行くことによって<再生>する、という文化人類学的な読みの構図は分かるが面白味に欠ける。
宗近が<トリックスター>というのも文化人類学的読みの面白さだが、そう言えるだろうか?
一度近代(藤尾)に触れた(その旨みを覚えた)人間が、「道義」を枠とする前近代(小夜子)に満足し得るのだろうか?
等々、いろいろ考えされてくれた刺激的な発表だった。
呼称の問題は次回に?