川端康成「夏の靴」  作品論とテクスト論  次は独歩の「春の鳥」

国語の3年生が作家を排除しない作品論を展開して議論沸騰!
昭和50年代に<読み>のパラダイム・チェンジが起きて、作家(についての情報)をテクストを読む時には持ち込まない(無視する)ということは、毎年「日本文学概論Ⅰ」その他で強調してきた。
今回の発表は、敢えて作家情報をテクスト読みに導入してみたらどういうことになるか、という試みになる。
具体的には作家川端の自作解説「独影自命」の記述をテクストに当てはめて、テクストに語られている舞台は伊豆だと言い切ることになる。
[と、ここまでは24日に記したのだが、眠くて帰宅。以下は27日自宅で続けるが、レジュメが手許にないので詳細には言えない。]
クダラナイ先行研究(川端研究には多い)には、登場人物と作家を短絡させているものもあるが(少女と川端を孤児として重ねるような)、今回の試みはそこまでヒドイものではない。
作家を読みに繰り込まない、というスタンスを徹底させられている2年生のツワモノ達には、違和感を強く感じたようで鋭いツッコミを見せていたけれど、作家を拒否しない作品論というものを考えるには良い機会になった。
意欲満々のユッコリンには、昭和40年代に作品論の時代を築いて一世を風靡した三好行雄『作品論の試み』を勧めておいた。
今どき作品論を展開すると学会ではバカにされ[かね]ないが、いつも言うように作品論がダメでテクスト論が正しいということではない。
面白い作品論・テクスト論に対して、クダラナイ作品論・テクスト論の2種類があるだけだ。
それにしても「夏の靴」というテクストは面白いレジュメを書かせる力があるようで、レポのお陰もあって十分楽しめた演習だった。
次回は国木田独歩「春の鳥」。レポの一人、水野クンは今回欠席だったけど、大丈夫かな?

@ 下から4行目の[かね]が抜けていたので補いました。(5月29日)