法律の言葉と文学の言葉(その2)

前に「法律の言葉と文学の言葉」という題で始めたものの、中途で止めたままなのが気に掛かっている。
暴風雨で中央線が止まったので記し始めたものの、午前1時半頃だったか開通したので止めたしだい。
気掛かりではあったものの、それ以上に気掛かりなことも多く(職場でも家庭でも大きな問題を抱えている卒業生等)、学生・卒業生と伴走するためにも学会の役員を降りた身としては、記事の続きを書いている場合ではなかった。
今も決してヒマではないけれど(昨年末締め切りの原稿を出せてないのがボク一人になったと催促された)、必要もあるのでここに続けたい。
親の意向に沿って三島由紀夫が法学部に進んだと知って同情したことがあるけど、その後三島が法の解釈の多義性に関心があるという発言をしているのを読み、それなら良かったとヘンに安心したことがある。
テレビで「行列のできる弁護士」とか何とかいう番組を見かけた時に、数人の弁護士の判断に差異ができるのを見て、「やはりそうか」とヘンな安心を繰り返したのを思い出した。
全員が同じ判定をしたら、それこそ怖いから。
その番組に出ていたのが現在の大阪市長・橋下であり、現在テレビで人気の八代という人であり、自民党に入党した何とかといういかにもオバカなオジンだったと記憶している。
八代という人に驚かされたのは、半年ほど前だったか教育問題で実に正当な発言をしていた時だ。
テレビに出るような人は所詮利用されやすい低レベルの存在だと思っていたので、八代氏の見識の高さは意外だった。
「教育」という分野も「文学」と同じで、「法律」が志向する二者択一とは相容れないはずであり、「教育」に携わる者は多義的可能性を担保する余裕が不可欠である。
だから法律家である八代氏が、教育問題で二者択一的狭隘さから免れている余裕を示したので驚いたわけである。
(北野たけしという「天才」の兄というだけで、特別の知識も見識も無い北野大が何の取り得も無い「床屋政談」的な発言をしているのを聞いたので、テレビに出るのはバカばかりと勘違いしたものか?
それにしてもこの兄は明治大学教授という肩書きなので、それも弟の(カネの力の)お陰かと推定するほかない。
学芸大にはそこまでヒドイ程度の教員はいないと思うので、学生・卒業生の皆さんはご安心下さい。)
八代氏に比べると、橋下市長は政治家としてはともかくも(法律家としても)人間としては遥かに劣るものと思われる。
八代氏の法解釈と人間性が、三島が関心を持った多義性を認める余裕を保持しているとすれば、橋下市長は物事の多義性を認める余裕が欠落していて、すべて二分法・二者択一に突き進む。
最近話題になっている刺青問題が端的に示しているように、橋下は刺青が持っている古来からの文化的側面を全く無視
し、自分の感性だけで刺青を<悪>として断罪してしまう。
日本に限っても、アイヌや沖縄の民俗的な刺青文化に対する差別意識を増長させる(自身でも強化する)ことが全く自覚できていない。
表面化されにくいのであろうが、アイヌ・沖縄に限らず、橋下発言によって傷ついた人は少なくないはずである。
被害者・被差別者に対するデリカシーが全く欠けている。
この点では、以前不用意にも「三国人」発言をして戦前から持続する差別意識を公言した石原都知事にそっくりで、両者が共鳴しているのもそのファナティック(狂信的)な点で頷ける。
(慎太郎が「七光り」の力だけで長男をサラリーマン的政治屋にして自民党幹事長にまで仕立て上げたのは驚きだが、その息子が尖閣列島問題等で親父のファナティシズムに苦言を呈していたのは笑えた。)
ともあれ橋下的発想はすべて<善・悪><合理・非合理><利益・不利益>等の分法だから、文化が無駄なものとして排除されていく傾向が必然である。
大阪府知事になった時も、すぐに文化に対する経済的弾圧等が実施されたのも記憶に新しい。
刺青に対する弾圧もこれと地続きなのは言うまでもない。
長年にわたる政治的弾圧に抗しながら、弱者が自己防衛にために作った労働組合に対する過剰な嫌がらせと抑圧も、文化に対する偏見と根は一つであろうが、労組に対する弾圧にはトラウマの匂いも感じられる。
学生時代あたりに、進歩的(左翼的)学生から反動的言動をなじられて凹んだ経験でもあって、権力を握った今になってアダを討っているつもりなのであろうか?
ヒットラーが若い頃にユダヤ人から不愉快な目に遭わされたのがトラウマのようになり、ユダヤ人を大量虐殺した歴史が繰り返されているようで不快感を拭えない。
自分の中にも、橋下における刺青や労組に当たるものが潜んでいないか、己れのチェックを忘れまい。

話が広がり過ぎた感じなので二つの言葉の問題に戻すと、法律の言葉では「この言葉はAの意味か、それともBの意味か?」という二者択一を志向せざるをえないようだ。
低レベルの検事や頭の悪い刑事がこの二分法で被疑者を追及すると、必然的に冤罪が生み出されることになる。
先日もネパール人の冤罪が明らかになった際に、担当したらしい刑事がテレビで「直観で犯人と確信した」と自慢していたが、思い込みに基づいて二者択一を迫って犯人に仕立て上げたものと推測される。
デカではなく、バカと呼ぶべきである。
(ちなみに法の言葉は、こうした言葉遊びを嫌うようだ。
言葉遊びこそ文学の根底のものなので、法律と文学は基本的には相容れないことになる。)

@ 以上を記したのは7月7日で、これも言い切ってない中途のままであるが、半年も延ばしている原稿のみならず、未記述の授業案内も溜まっているので、いずれまた続けたい。