研究の方向

院修了してから、個人的に研究を続けている(エライ!)卒業生からの「悩み」相談があった。
テクスト論でやってきたけれど(「学芸国語国文」にも掲載されたことあり)、最近行き詰まりをかんじているとのこと(手許に手紙が無いので記憶による)。
かといって文化研究やら何やらに方向転換するのも腰が引ける、とのこと。
作家論的研究に後退するというのでなくて良かったけれど、強く興味を惹かれるなら文化研究でも何でもやれば良いだけの話。
さほど関心が無いなら、止めた方が無難な気がする、持続しないだろうから。
既発表論文を読む限り、切れ味の良いテクスト分析ができる人なので、そのまま続ければイイというのが結論。
要は独りで研究しているから、自己の対象化がなされないのでネガティヴになって行くのだろう、ということ。
何度かゼミに参加するように慫慂しているのだが、ナルシシストすぎて傷つくのが怖いのか、逃げ続けている印象。
時間的余裕はありそうなのだが。
自分(の読み)を他人にぶつけて称賛されたり批判されたりすることで、自己のやっていることに自信が持てたり、「ナニクソ!」という気持になって次のステージに上がる可能性も獲得できるというもの。
作家論的研究でも文化論的研究でも何でも、テクストを外側から論じようとすればテクスト離れするのは当然の結果で、テクストを作家で説明したり、テクストを依拠した理論のタームで置き換えて読んだ気になってしまうことになる。
文化論的研究でも何でも、それぞれピンからキリまで幅広いランクがあるのも当然。
興味も持てないのに今からベンキョウして、付け焼刃で誰でも書ける程度の論文を残すよりも、それなりに達成しているテクスト論のやり方でスゴイ論文を目指した方が結果も出るだろうし、自分でも安心して研究を続けることができるだろうと思う。
作家論的研究から、興味の赴くままに文化的研究に転じて素晴らしい業績を残している研究者もいるが、あくまでも例外的な成功者と思った方が無難。
その人も自己閉塞せずに、新しい分野に対して自分を開いて行った努力が結実したものと思う。
閉じていると後退はしても、進展は無いと考えてみてはどうか?
テクストが消滅しない限りテクスト論的論文は残るが、目先の理論に依拠した論分は、その理論が廃れたら論文も埋もれて終わるということも考慮していい。