全共闘運動  イデオロギー

前回の呑み部では眠り込まずに意識が持続していたと思っていたら、ミチルちゃん(第1回発表者)から証拠写真が送られてきてビックリ!
しっかりコトキレて(眠り込んで)いるではないか! いつものように。 (ここに写真を提示する技術がないので見せたくても見せられない)
それでも印象的に残る話をしたのを覚えている。
毎回参加のナオさんはボクと同世代ながら文学研究に励んでいるツワモノだけれど、ボクが時々全共闘だったと公言しているのを見ていて、驚きつつも隠す必要のない過去なのだと分かって安心したと語っていた。
こういうことが話せるのが呑み部のオモシロイところなのだが、ナオさんは(周囲も)全共闘運動が消滅したら強度な敗北感に囚われたそうだが、ボクにはいっさい敗北感を感じられない上に大っぴらにその過去を記し続けているので驚いたそうなのである。
改めて敗北感は無いのかと問われたから、全く無いと応えながら《例えば「革命」というような究極的な勝利などハナから目指しても信じてもいなかったから、「弾圧」されるまでやるだけのことをやったらいったん休止するだけの話サ。》と説明した。
学生の頃は、全共闘仲間の間では《革命が起きたら(新しい抑圧に抗して)反革命の運動を展開するまでだ!》というフレーズがマジメに交わされていたものだ。
敵対していた共産党系の学生も含めて、それぞれの「革命」理論に囚われていた全学連の学生たちの中には、敗北感に陥って自殺した者がいたことは耳に入ってきたけれど、狭い了見に閉塞した結果に同情はしても全く共感できなかった。
政治でも宗教でも(文学研究でも)、イデオロギーに捕縛され依拠してしまう人間の弱さなのだと思う。
狂信的になればなるほど折れやすい。
ドストエフスキーの文学が圧倒的なリアリティがあるのは、彼にはそうした体験が身に染みていたからだろう。

ボクが全共闘だったことを公言するのは、自分をチェックし続けるためでもあることが大事である。
古くは戦場体験までさかのぼるであろうが、60年安保の世代などが過去の経験を過去のものとして押しやり、現在の自分と切り離して居直っている姿勢が許せない。
まさにアイデンティティ(自己の一貫性)の問題なのであるが、若き日の自分の精一杯の言動を「若気の至り」として葬り去り、一貫性を断つのが一人前の人間として当たり前だと思っているヤツ等が許せないのだ。
(伏字)
この類の御仁は大学にたくさん巣食っていて、学大でもかの上野某(まだ特任の地位にしがみ付いているようだ)が典型的な例だろう。
研究棟に施錠して学生を締め出したのは、他ならぬこの俗物であることは前に記したかな?
学生との交渉の場で、この弾圧者も前出の(伏字)と同じことを洩らしたのを聞き、嫌悪感が湧きあがったことがある。
自慢じゃないが(自慢かな?)ボクがお松さん・お竹さん正副学長ペアのセクハラ等に対する無視・無策を厳しく批判し続けたのは、過去の自分と現在の自分とを切り離してはいけないと常に自覚していたからだ。
全共闘が掲げたスローガンには学生処分撤回が少なからず含まれていたものだが、過去に弱者(学生)の立場に立って生きようとした者なら、現在のハラスメントの被害者のために闘うのが当然だろう。
度々紹介している前橋高校時代の恩師・須関正一先生から励まされたお言葉「関谷、丸くなるなヨ!」の意味するところも同じことだろうと理解している。

@ 眠気覚ましで向かったブログ記事だが、意外に長くなってしまった。
ゼミ部には参加できなくても、呑み部への参加を歓迎します。
次回は9月27日(土曜)で、呑み部は5時半ころからかな。