朝日新聞、止めよか・・・(1)  研究者の文芸時評はつまらない  島田雅彦は才人

朝日新聞が集中砲火を浴びている。
許し難いチョンボを重ねたのだから、当然だろう。
珍しくジャミラも反応して、朝日を止めて日経を取ろうと提案してきた。
日経と言えば、学生時代から読む所が無い新聞というイメージが拭えない。
ゴミ大尽のジャミラは一方でマネーゲームをしているので、株情報が盛りだくさんの日経が望ましいようだ。
ともあれ朝日新聞忌避は、どうやら国立の気位だけは高いオバハン連中の流行りのようだ。
朝日から毎日に換える例が多いそうだけれど、それなら日経よりはマシだナ。
いつも強調しているように、日本では特に《同調圧力》が強いので、それに乗るのもイヤだしナァ〜。
デタラメさでは読売は朝日以上にヒドイし、産経に至っては新聞の名に値しない(と鳥肌ミノルにまでバカにされていて笑える)。
朝まで生テレビという番組で右翼代表のように大声で出しゃばっているオバカオヤジが産経だったかな?
ああいう低能の大声は聞くに堪えないので、番組そのものを見るのを止める。
司会の田原総一郎もだいぶボケが進行して、自説をこだわりすぎたりで議論を集約しきる能力が無くなっている。

読売は全共闘時代に、医学部のノンポリ(ノン・ポリティック)学生が「学生以外は立ち入り禁止だから記者は現場にいなかったのに、学生が暴力的に学部長を締め上げた」と書かれてしまった、と憤っていたのを思い出す。
当の学部長(確か「小林」先生だった)自身が読売の記事を全面否定してくれたというのだから、読売が意識的な情報操作をやるのは知れたこと。
なんせナベツネがトップなんだから。
ナベツネは死んだ方がイイ存在と記したことがあるけど(ボクがそこまで言うのは珍しい)、先日の朝日の論壇時評(高橋源一郎)に戦争体験のあるナベツネが、議会制民主主義否定を祖父の岸信介から受け継いだ安倍晋三に戦争の怖さを教えてやったとあったので、ナベツネの評価を少し上げなければいけないと考えている。
ともあれ、読売のデタラメ記事騒ぎは裁判闘争まで進んだと記憶しているが、判決は?

ジャミラには朝日は文化欄が充実しているので換えたくない、と取りあえず応えたけれど内心はそれほど確固たる判断ではない。
文化は広いのでジャンルによって朝日も凹凸があるのは当然だけれど、例えば演劇時評の欄は他の新聞に期待できないのでは、と勝手に思っている。
敬愛する扇田昭彦さんの批評は信頼できるからなァ〜。
一番問題の文芸時評は人選の当たり外れの幅が大きすぎて、今の片山杜秀に至っては音楽の批評家に大きなものを背負わせすぎてミスキャストでつまらない。
片山の音楽批評はレベルの高いものに感じられるものの、文学方面に至っては???
高校時代に朝日で江藤淳文芸時評を満喫していたけれど、同級生の五十嵐昇クンが毎日の平野謙文芸時評を読んでいたので互いに交換して読めたお蔭で、江藤の切れ味の良さがより明確に分かったものだ。
文芸時評は文学評論一般とはジャンルが異なると思わないといけない。
小林秀雄江藤淳のように両方できる批評家もいないではないが、一時代を築いた柄谷行人でも文芸時評は合格とは言えない。
文学の普遍的な問題を論じるのと、同時代の文学を理解するのとは別の能力を要すると考える。
だから文学研究者が文芸時評などやると恥をかくだけなのに、朝日は蓮実重彦で失敗したのに続けて小森陽一に回したお蔭で朝日の文芸時評は地に落ちた感じ。
あれで文芸時評のみならず、同時代の文学も読む気がしなくなった。
同時代の作家達が背負っている文学の問題が研究者に分かるはずもないのに、出てきた作品に対して定期的にコメントしなければならないのだから、成功など覚束ないのも当然。
今回の片山氏もこの失敗路線をなぞっている印象なので、朝日新聞を止める理由にはなるだろう。

話が朝日から文芸時評の問題にズレてしまったようだが、根は同じで朝日のイデオロギーに原因があると言いたいのだ。
もちろん明確なイデオロギーがあるというわけでなく、何でも左翼的(進歩的)な考えに基づいていれば許されるだろうという甘えである。
読売・産経が保守反動・右翼を代弁してオバカな読者を引き回すなら、その反対路線で進歩的な読者を満足させようという安易な発想である。
だから慰安婦問題ではガセネタに飛びついてしまうし、原発問題では東電会社に対する世間の嫌悪感・憎悪を代弁するかのように、事実とはズレた過剰な表現を取ってしまうわけである。
文芸時評担当者も小森陽一のように日本共産党という旗幟鮮明ではないにしても、揃って進歩的インテリゲンチャのイメージの枠を踏み出さない。
江藤淳は例外中の例外で、今で言えば例えば福田和也あたりが朝日の文芸時評を担当することはありえない(福田の能力は別にしても)。
蓮実や小森が読者離れをさせた危地を救ったのは島田雅彦で、この作家は批評眼も確かでこの上ない文芸時評を味あわせてくれた。
例えば舞上王太郎などという、聞いたこともない作家を取り上げてくれながら、現代の小説(家)が抱えている問題意識を分かりやすく説いてくれたものである。
やはり現代小説・現代詩の問題は、批評家の手に余るものだと痛感したもので、ましてや研究者などが顔を出す場などではない。
もちろん作家なら誰しも批評ができるわけでもないのは、昔大岡昇平が朝日を担当した時もつまらなくて大失敗だったと思う。

@ この欄は数日前から記し始めたのだけれど、次ぎ次ぎと別のことを書きたくなったものの、この記事が膨らみすぎて収拾がつかないので無理に「中じきり」を付けておく。
 続きはまた。