恋したヨ〜  NHKのBS「こころ」特集番組

昨日(23日)は桐原書店の教科書編集会議だったと記したけど、打ち上げで久しぶりに沢山呑んだ。
ビールがプレモルだったので、最後まで美味く呑めたのはいいけれど、呑み過ぎて久しぶりに喘息の発作がおきて吸入で抑えた。
帰宅したらすぐに床に就いたけど、2時間ほどで目が覚めてしまった。
ビールの酔いのせいか頭痛がして本を読む気になれないので、録画してある番組を寝たまま見ることにした。
気になっていたのはNHKのBSで「こころ」の読書会をやっていたもので、放っておいてから2週間も経っている。
「見たい」けど「見たくない」というのがその理由で、今テレビに出てくる女性では一押しの中野信子さんが出ているから「見たい」けれど、ルー小森(陽一)が出しゃばるから絶対「見たくない」という板挟み、困った!
眠れないので仕方ないから見始めたら予想を超えて遥かにヒドイお粗末な内容だった。
それもそのはずで、中野さんと鈴木杏という若いタレントという文学では素人女性二人に、関川夏央高橋源一郎にルーさんが加わった恣読のツワモノが顔を揃えたのだから落花狼藉、言いたい放題の汚物のタレ流し。
押しの強さではルーさんに引けを取らない関川の著書は読んだことはないけれど、実証で際立っていた十川信介さんが関川の二葉亭四迷の本が出た時に激怒していたのを思い出す。
高橋源一郎は朝日の論壇時評は共感しつつ愛読しているが、代表作(?)の日本文壇史を恣意的に読み換えた(パロった?)小説その他まったく読んでない。
高橋は歴史番組にも出て勝手なことを言ってるのも聞くに堪えないことが多いが、専門外なのでご愛嬌としてスルーしている。
しかし「こころ」で同じような放言をされては聞いていられない。
そのせいか、始まって20分くらいの所でまた眠ってしまったようだ。
時々中野さんの声が聞こえていたせいか、近年にないステキな夢が見られた。
自分が高校生か大学生になっていて、ものすごくカワイイ女の子と親しくなっていて幸せな気分だった(日にちが経つとともに記憶が薄れるのが淋しい)。
三四郎」の広田先生の見た夢を想起したら、漱石も同じようなイイ夢を見たことがあったのだろうと思った。
次に目覚めたら番組が終っていたので途中から見直したけれど、意識がハッキリしたせいか3人の放言が聞き苦しくてハラが立ってきた。
録画はすぐに消去したので確認できないが、例えば「K」は北村透谷と言ってみたり、川上眉山だと言ってみたり幸徳秋水にしてみたりの思い付きを並べていたけれど、それぞれが全く根拠に欠けることばかり。
実証的な研究に依れば、「K」は小屋保治で後の大塚保治、即ち漱石が心中に秘めた思い人である大塚楠緒子に婿入りした男の旧姓イニシャルで、婿入りに際しては漱石も候補に上がっていたライバル同士だったとか。
事実に還元すると解釈が単一に固定されてツマラナクなるのがマイナスではあるが、小屋(大塚)保治説を紹介しながらそこからの脱却の試みとしての諸説を羅列するのならまだしも、番組では小屋説を無視したまま連想ゲームに奔るのだからタマラナイ。
プロデューサーが文学とは無縁で、無知かつ3人同様の無恥なせいだったためか。
却って素人娘の鈴木杏ちゃんが、漱石が「K」を殺したのはもう一人の自分を殺したのではないか、と言ったのが印象に残った。
AKB並みのオバカな子じゃなかったようで、掃き溜めのような議論の中に置かれてカワイソーだった。
ルーさんは今や懐かしい旧説、書生の「私」が静(奥さん)とその後を生きて行くという恣読を得々と繰り返していたが、今どきそんなバカの読みが通用するのか、それとも新しいオバカな支持者が現れるのか不明だが、その後に流行った「春琴抄」のお湯掛け論争(恣読レース)同様に過去のものとして葬り去るのが良識というものだろう。
恣読者の無恥ぶりは変わらずとも、読者も研究者も当時の無知さと比べれば賢くなって簡単には騙されないと思いたい。
恥知らずが無知蒙昧な読者をタラシ込んでいた当時の「こころ」論争の盛り上がりを横に見て、吐き気に耐えながら推察していたのは、海外育ちのルーさんには日本語の「先生」という呼称に込められた学生・生徒の思いは決して「そらぞらしい」ものではないということが理解できてないし、明治大正期の書生の倫理観(感)からすれば、決して先生と呼んだ人の妻と「共に生きる」などという発想は持ちえないということも理解できないので、止めようのない恣読に奔っているのだろうということだった。
日本語が不自由な読み手の恣意的な説を、新しい読み方に飢えるあまりに安易に受け入れてしまった当時のバカな読者も、今や成熟してテクスト(本文)を疎かにせず読む習慣が身に付いた上で教育に励んでいると思いたい。
汚らわしいBSの「こころ」特集番組が、悪影響を及ぼさぬことを祈るのみ。