肺炎から回復  死のいそぎ

「こころ」のテレビ番組についての感想に手間取り、肺炎にまつわる報告が遅れてしまった。
(前にも記したように、1件を記述し終わらぬまま(保存したまま)、次の件を書き始めるやり方が分からないので。)
ごく最近ブログを読んだ卒業生がビックリしていたが、心配には及ばない。
25日に病院に行き、レントゲン撮影をしたらもう影は無いから、予定通り治療は終りと言われた。
2週間の投薬治療が効いたということなのだろう。
深呼吸をするとまだ音がするのは、喘息のせいだろうという。
確かにこのところ久々に喘息の発作が起きている。
季節の変わり目のせいもあるだろうが、直接的には酒のせいだと思われる。
最初の発作も近代文学3ゼミのアフター(呑み会)の場だったが、23日の桐原の編集会議の後で中仕切りの呑み会があって呑んだら発作が起きたので吸入して抑えた。
昔から胃や腸が弱いのだという自覚はあったが、呼吸器の弱体化が目立ってきたようだ。
主治医から呼吸器が弱いようだから、肺炎球菌ワクチンやインフルエンザ・ワクチンも受けるように言われた。
インフルエンザ対策などしたことはないと言ったら、ずいぶんノンキな人ですネと笑われた。
長いことインフルエンザ風邪などひいたことはないので慢心していたけれど、心と裏腹に身体は華麗(加齢)に変身しつつあるようだ。
我流に言い換えれば、今度の肺炎は自分の中に《死》が育まれるようになったということ。
癌がまだ生じていないとすれば、その代わりに肺炎が《死》を用意し始めてくれているのだ。
何も恐れることはない、死は誰にも平等に訪れるのであり、個人的には意識の死の前に肉体の死が先んじて欲しいと切実に願う。
あくまでも個人としては、ボケきる前に死を迎えたい、ボケたまま他人(ひと)の世話になりたくないということ。
そのためには肺炎という形で《死》が少しずつ育ってくれるのは、歓迎こそすれ拒否する気など毛頭ない。
個人を離れて言えば、西洋医学が進化するままに「生きる」のではなく「生かす」ことが自己目的化され、《生》の質を問うことなく生かされてしまうのが現代人が置かれた状況である。
長生きが必ずしも幸福とはいえないのもそのためである。
各自が死のいそぎ(準備)を必要とするゆえんである。
(「いそぎ」は好みの詩人の一人・伊東静雄の「春のいそぎ」を意識して記した。)