教えてくれ!  桑田佳祐  「かたえくぼ」  糸井重里  現代詩

朝日新聞には「かたえくぼ」というコラム(?)欄があって、これは欠かさず読んで楽しんでいる。
短い言葉による時評と言えると思うが、読者の投書によっているがなかなか冴えていて毎日レベルが高いものが選ばれている(常連もいるらしい)。
例えば一昨日(5日)は題が「ゆるキャラ1位」で、「何も贈っていません  −−ぐんまちゃん」というもの。
ぐんまちゃんがゆるキャラの中で全国トップに選ばれたというのはテレビで知ったけど、1位になったのは違法の贈り物をして辞めざるをえなかった大臣とは違うヨ、という意味なのは明らかだろう。
ところが前の日の「秋の褒章」では「熱い胸騒ぎがしました  −−桑田佳祐」という一言なのだが、意味が判らない。
桑田は「勝手にシンドバット」や「いとしのエリー」の頃は知っているけれど、その後の曲はよく知らないので、この「かたえくぼ」が理解できないのかな?
分かるヒトがいたらメールで教えてちょうだい。

これだけで終わったらバカみたいだけど、シロウトでも毎日高いレベルの笑いを短い一言の時評で表現できるのだから、クロウトのコピーライターは大したことない、とは言えないということが言いたいのだ。
一時期、似顔絵で評判だった山藤章二が言っていたのはシロウトの怖さだった。
学生にも時々似顔絵が上手いのがいるが、シロウトでもけっこう上手く描けるので、それと対抗しながらクロウト(プロ)の座を守る大変さを語っていたのを覚えている。
似顔絵の方はよく分からないけれど、シロウトと一線を劃するとすれば、相手がだれでも描けてかつ自分の味わいを出せないとプロにはなれない、ということではないかと推察している。
言葉の世界でも同様のことが言えるとすれば、「かたえくぼ」の投稿者は単発的である点が限界で、コピーライターは依頼されたら常に水準以上のコピーを作れなければプロから脱落する、ということになるのかな。
さらに問題を深めると、「悪夢劇場」で著名な(?)花輪莞爾さんに昔「最近はコピーライターの作品も現代詩として評価する人がいるようだ」と教えられたことがある。
その時もすぐに「そりゃ違うでしょ」とは思ったけれど、言葉には出さなかった。
確かにマエタカ(前橋高校)で同学年だった糸井重里のコピーには感心するものがあったが、「おいしい生活」という言葉の接続の仕方はタダモノではできまい。
シロウトの一発芸ではなかったのでチョー有名になったけれど、妻や浮気相手(樋口可南子)がいたものの、小雪とかいう若い子の所に通っているところをフライデーされていたのを、床屋の『フライデー』で見た時は同情せざるをえなかった。
女の居所に近い路上に駐車していたマイカーまで戻ろうしていた朝帰り姿を撮られるのが嫌で、折りたたみ傘をすぼめたままかぶっている姿のミジメさは、これが有名税かと見せつけられながらも、卑しい週刊誌記者どもに対する怒りも覚えたものだ。
その時の小雪とかいった女性と、今の小雪が付くタレントと同一人物なのか別人なのかもハッキリしないので、知ってるヒトがいたら教えてもらいたい。
糸井がその若い女性と別れた後でも歓迎した樋口可南子はリッパ(カタカナ書きに注意)だったが、今や糸井は知られてない相手に自己紹介する時に「樋口可南子の夫です」と言うと聞いて笑えた。
確かに樋口の方が遥かに露出しているナァ。
話を元に戻すと、谷川俊太郎天野祐吉との対談で、コピーは広告すべき商品から切り離せないので現代詩とは一線を劃している、と切り捨てていたのが潔(いさぎよ)かった。
でも、ねじめ正一の傑作詩集『広告詩』(おススメ!)を想起すると、この詩集には商品と結び付きながらもレベルの高い詩現代詩があるので、俊太郎の切り捨て方は検討の余地がありそうだ。
大きな違いの一つとして、詩は永続性があるけれど、コピーはコピーの歴史には残っても、一般には忘れられ消え去るのだろうナ。
コピーは古びても(「おいしい生活」と言うとダセエ! とバカにされそう)、詩は古びないというのも大きな差異かな。
この問題についたも名答を思い付いたら教えてもらいたい。