韓国サイコ―!(その2)  関谷(かんこく=音読み)の「和解」論サイコー!

韓国のこの学会は日本近代文学分野の方ばかりではなく、古典文学も日本語学専攻の人も属しているので、講演の焦点をどの人に合わせていいのか工夫を要した。
講演題を「日本文学の特異性とその研究法――初歩から上級まで」としてレベルに幅を持たせたのは、どの専攻・レベルの人にも関心を持ってもらえるためだった。
話し始めた感触からすると大学教員や院修了生の聴衆が中心らしく、これなら日本で学部生相手の講義よりレベルアップできるので話しやすいと判断できた。
懇親会の席で分かったのだけど、食い入るように聴いてくれていた人が石川淳の研究をしていると聞き、韓国の日本文学研究も進んでいるナと実感したものだ。
1)まず初歩的問題としては、日本でもよく混同・混乱が起きている2つのものの差異を説いた(当日「解答例」としてA4で4枚のレジュメを配布した)。
① テクストと作品  ② テクスト論と作品論  ③ 研究と批評

2)中級レベルの問題として次の説明をしたが、基本になるパラダイム・チェンジの理解を説いた。
① 「作者の死」を自己の研究にどう関係付けるか 
② 研究論文における「文体」の位置づけ
③ 読みにおける「創造性」
④ 「焦点化」と「視点人物」――「三四郎」の最終章の前半は「視点人物」の三四郎がいないのに語られると言う不自然さを否定できない。
 これをジュネットの概念を援用すれば、この章の前半だけは「焦点化ゼロ」の語りであり、その他テクスト全体は三四郎に「内的焦点化」された語りだと理解した方が適当だろう。

3)上級者レベルの問題は、実践例として拙稿の「和解」論を講義しようと考えていたものの、日本の学会のように「会報」で予め「和解」を読んでから当日参加するという期待ができなかったので、論じる対象である「和解」を未読の人に拙論を語るのも不毛に思えたのでキッパリ諦め、ブログに記すから読んでくれと伝えて講演を止めた(それでも時間オーヴァー)。
というわけで、ここに「和解」私読(拙著『シドク――漱石から太宰まで』洋々社)を簡略に講義するハメになったのでご清聴を!
とはいえ私論をなぞるのではなく、学部1年生の授業で5〜6回分の内容が伝わるように記したい。
① テクストの読み換え(創造)――「和解」ではなく「成熟」の物語として読む→「和解」は2人の物語で「成熟」は主人公1人の物語→志賀直哉は2人の葛藤の物語は生涯書けなかった→志賀のみならず日本文学の自己閉鎖性
② 「成熟」を特に文化人類学の概念を援用してテクストを読む――「成熟」はアイデンティティの入れ換えである→「子どもとしての順吉」から「大人としての順吉」へ→それぞれがテクスト中では「長女の死」から「次女の誕生」という記号から読み取れる
③ つまりは私論は小説読みのリアリズムから、非リアリズムである記号論的な読みを展開したものである
④ 初出稿には無かった第十章である次女の誕生が、初刊本では詳細に語られるのは、記号論として読めば「大人としての順吉」を表す次女の誕生が語られねばならなかったからである。
⑤ この伝でいけば、私小説的読みでは「M」という友人は武者小路実篤ということになるが、記号論的に読めば「M」はMOTHER/MAMA/MERE等々のように日本に馴染みの深い欧州語が表す「母なるもの」の表徴として押さえることができる。
⑥ さらにテクスト的には不要と思われる順吉や義母の下痢が敢えて語られるのは、下痢が古い順吉の自己を表徴するからだと読める。
 義母の場合は順吉が「成熟」(父と仲直り)した後で下痢が語られるが、順吉が一人前の人間になったので、それまでの「順吉の母」である義母の自己が下痢として対外に放出されるのである。
⑦ 「和解」というテクストには時間が整序化されていないので読者を混乱させがちだという不満があったが、文化人類学的に読めば時間が重層化されることでテクストが創りだしている時間に厚みが生じ、それが誕生の際の胎道として読めるということだ。
 胎児が胎道を通過する苦しみをクリアすることで人間というアイデンティティを獲得するように、順吉はテクストの時間を潜り抜けることで大人としてのアイデンティティをゲットしたと読むのである。
 他の分かりやすい例を挙げれば、遊園地のみならず迷路遊びが盛んなのは、まっすぐに近いほど道は簡単に通過できてしまうので手ごたえが感じられない。
 迷路は迷うことで敢えて生きる手ごたえを創り出してくれるので、現代のように子供の頃から偏差値でその後の道が決定され整序化されている人たちにウケるのである。
⑧ 和解の成立を記念する会食ではあるが、同じ物を食するということは同じ心を共有することを意味する、という事情は「最後の晩餐」を想起すれば解りやすいであろう。
 最後の晩餐を共にした後でユダが裏切ったのは、宗教的同一性を共有した後で裏切ったからこそ、その裏切りは重かったということである。
 会食することで父と順吉は固く結ばれたのであって、弟の順三が遅れてなかなかやって来ないのを父が気にするのは、順三がやがて「第二の順吉」として育つであろう表徴と読める。
 一般化して言い換えれば、「成熟」という「物語」にも終りは無いということである。歴史同様、物語も繰り返されるものである。 
⑨ 叔父が不要なほど目立つのは、叔父が文化人類学で言う「トリックスター」=媒介者だからである。
 実業界に生きる父と小説家である順吉というそれぞれ「実の世界」と「虚の世界」の「王」を結び付けることができるのは、トリックスターである叔父以外にはない。
 その証拠のように叔父が杖(実際には目が不自由だからという理由であるが)を持っているのは、20世紀を代表するトリックスター(道化)であるチャップリンがステッキを手放さなかったのを想起すればよかろう。