安藤宏と松本和也  小説ばかりが文学じゃない!

2人を並べると、新旧の太宰研究を支えるトップランナーを比べるように見えるが、ここで取り上げるのは両者の太宰モノではない。
安藤宏『日本近代小説史』(中公選書、2000円)は読み易く・信頼できる文学史だと思ったが、価格が何とかならないものか、この小型で薄い書籍なのに。
学部の低学年生向きの教科書や一般読者に勧められる啓蒙的な文学史だ。
目次を一見すれば解るように、独自の文学史なり切り口が展開されているわけではないので、専門家用として期待して読むと外される。
だが定説に基づいた文学史としては、先行書も含めてこれ以上ないほど細部の叙述にも気が配られていて、ソツのない説明が続くので感心する。
引用される原典も含めて、さすがに安藤氏の書くものは違うと感じさせてくれるので、安藤宏を読むという楽しみ方もある。
ボクも長年文学史の授業をやってきたけれど、この本なら教科書に指定して読ませておけるので(共通の師匠である三好行雄の新書版を数回教科書にしたことがあったが、それ自体が作品になっている高度な書だったので、解説するための時間を要した)、授業中は好きな作品なり別の文学史(一度試みた詩歌の歴史)を講義することができると思う。
難を言うと、安藤氏も断っているとおり、詩歌や演劇の歴史は全く語られていない点だ。
つまり日本の文学史が小説中心に語られてきた欠落がそのまま踏襲されている、ということだ。
氏の大著『近代小説の表現機構』(岩波、8600円、これも高価過ぎ!)も表題どおり「小説」に限定されていて、「表現」をテーマにしながらそれでいいのか? と個人的に不満を書き送ったことがある。
三好師や越智師は、それぞれ小説以外にも詩歌や演劇を論じる幅の広さを持っていたけれど、その後の世代は皆視野を狭めたまま自足してしまっていて、欠落の自覚も欠けている(むろん自戒を含む)。
ジャンルの幅(と論じる能力)を兼ね具えている稀少な例は勝原晴希なのだけれど(演劇は欠ける)、朔太郎の本をまとめるように期待し続けているものの、春樹の論にまで手を拡げたりしながら10年以上期待を裏切り続けている。
春樹など誰にでも書けるのだから朔太郎論を早く出せと脅かしてきたものの、サバティカルの今年度も出さずに終わることだろう。

松本和也氏の「神様」論に対する不満は発表したとおりだが、その論が収録されている『川上弘美を読む』(水声社、2800円)の「真鶴」論を期待して読んだ。
松本氏には戯曲論もあって、豊かな才が幅広く展開されていくであろう将来がとても楽しみだ。
「真鶴」は久々に《文学》の香りを嗅がせてくれた作品だったので、「怖るべき後生」松本和也氏がどのように論じてみせてくれるものかとワクワクして読んだものの、不満だけが残った。
論の表題「小説内/外における”書くこと”」のとおり、三浦雅士からヒントを得たメタフィクシャナルな観点からばかり言及されていてもの足りない。
そもそも三浦雅士という評論家に感心したことが無いせいか(浅田彰がバカにし切っていたけれど、それに同調するわけではない)、三浦ごときの思い付きに乗ってどうする! と苦言を呈したくなるデキの論だ。
テクストを緻密に読めない三浦は、競争相手の少ない舞踊というジャンルに生きる道を見出したようだけれど、テクストを精密に読める松本氏はキチンとテクスト「内」を読んでみせて欲しいものだ。
氏は「教養小説」(ビルディングス・ロマン)としての読み方の可能性は見せ消ちしているが、京を中心化して読めば臨床心理学で言うところの《統合》の試行として読むのが妥当というものだろう。
夫の礼の失踪を自己の中に《統合》する試みをしながら失敗し続けるものの、最後には死んだものとしてフロイトの言う《モーニング・ワーク》(喪の作業)をして終わると読んだが、どうだろう?