川上弘美「神様」論

近々出る『現代文学史研究』に三島由紀夫「近代能楽集」論を書いたので、前号の論を解禁してもいいだろうと判断して公開します。


  川上弘美「神様」の読み方・教え方――松本和也氏の論考をたたき台にして

                               関谷一郎

川上弘美の作品も論じるに値する研究対象だと教えられたのは、河田小百合の「蛇を踏む」論(『学芸国語国文学』2009・3)を読んだ時である。金無垢の私小説は大嫌いだが、幻想譚にもあまり惹かれないので、こんな不思議な世界をキチンと論じる手並みには感心したものだ。河田氏は元来泉鏡花の研究者であるが、そのせいで川上弘美も論じることができるのだろうと受け止めていた。自分には読解できないものの、学生にも読まれている作家なので文庫本『蛇を踏む』をテキストにして演習授業で挑戦したことがある。それぞれの短編がやはりワケの解らない世界ではあるものの、面白さには惹き込まれたものだ。
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編集委員をしている桐原書店の高校国語教科書に、その川上弘美の「神様」という作品が教材候補として上がってきたので、改めて文学・教育の両面から考えさせられた。高校生にも楽しんでもらいたい作品・作家ではあるものの、果たして教室で取り上げるにふさわしいテクスト(本文)かというと、不安で躊躇せざるをえなかった。それでも既に他社の教科書に採用されていると伝えられると、桐原でも冒険していいかナという気にもなった。
それにしてもこの不思議・不可解な作品世界を教室でどう読んでいけばいいのか、自信も確信もないままに、恒例の宇都宮大学東京学芸大学合同夏合宿(今年から卒業生中心)のゼミで「神様」を討論してもらった。発表は宇大卒の高校ベテラン教員(生涯で最初に担当した院生)津久井秀一氏に引き受けてもらった。津久井氏が気を利かせて「神様2011」(『群像』2011・6)も配布してくれたが、議論ではこれを無視して「神様」に限定して読み合うというのは、私のみならず津久井氏の意向でもあった。
そもそも文学プロパーの問題として言えば、「神様2011」は取るに足りないテクストでしかない。作家サイドからすれば、当初は発表の意図なく書きとめたものということのようであるが、作者の手から「漏れ」出てしまったために文学の場に原発並みの害悪を及ぼすことになった。人間的・作家的良心から、フクシマの惨状に堪えぬまま出来心で改作してみたまでのことかもしれぬが、仕上がりからすれば木に竹を接ぐようで、フクシマの現実にはかすりもしていない。無クモガナのお粗末なテクストである。
思い合わされるのは芥川賞を受賞した三田誠広「僕って何」である。これも筆のすさびで三田が書き置いていたものを、新作家製造をもくろむ出版界が世に出してしまい、結果として歴史に残る悪作になったものである。決して低レベルの作家とは思われない三田自身にとっても最大の汚点であろうし、話題作りのために「神様2011」発表を制止しなかった編集者のお蔭で、川上弘美三田誠広と同じ轍を踏むこととなってしまった。私個人としても最近ますますその魅力に憑かれている、川上弘美という傑出した作家のためには惜しまれるヴァージョンである。(これを機にずいぶん前に買いおきしておいた「センセイの鞄」を手に取ったら、軽妙さと深さの同居で読ませる力に驚かされ、「真鶴」を読み始め神域に近い筆力に圧倒されているところである。)

《くまにさそわれて散歩に出る。河原に行くのである。春先に、鴫を見るために、防護服をつけて行ったことはあったが、暑い季節にこうしてふつうの服を着て肌をだし、弁当まで持っていくのは、「あのこと」以来、初めてである。》(「神様2011」)
フクシマにまつわる小道具を小出しにするという「素材の積極性」が、作品の達成度を不問にするであろうと期待するのは、「進歩」や「左翼」を縹渺するプロ文以来の根本的な勘違いである。モチーフが作家の良心に発していれば全て許される、というのはクソミソ一緒の混同で日本人的心性の表れではないか。文学に倫理を持ち込んでしまったのが近代の日本文学史の特徴であり、自然主義白樺派プロレタリア文学という内容主義のラインが文学史の流れの中心に位置するのも止めようのない勢いであった。そこで排除、或いは過小評価されたのが形式主義であり、また娯楽性と芸術性が背馳しない文学である。娯楽性を喪失した「純文学」に小説を読む楽しさを回復させた代表が村上春樹だとすれば、川上弘美も春樹に比肩できる豊かな文学性と娯楽性を共に保持し続けている。軽さを感じさせながらも掛け替えのない言葉で練り上げられた文体で、読者を不思議な世界へ引き込んでいく二人の作品群は今や文学史上の異例のという段階から脱している。今さら言うまでもあるまいが、日本の小説の本流が変質・変換しているのは明らかだ。
しかし作家サイドからすると、一時代前まで不可欠だった倫理観を切り離して娯楽性・芸術性に奔るのは、後ろめたさに似た思いを強いられるものと見える。自閉しがちな己れの世界から脱出する試行として、春樹が強調するコミットメントが上げられようが、「神様2011」は川上なりのコミットメントの仕方だったのかもしれない。だったら「神様」の優れた達成に甘えて乗ったりせずに、最初から新しいコミット作品を創り上げるべきだったと考える。「神様2011」は「神様」自体(とその読者)に対する侮辱でしかない。無クモガナのヴァージョンを遺すよりは、反原発のデモの隊列に加わった方がはるかにマシだったと思われる。
川上が幻想的世界に閉塞しているという自覚と反省から「神様」に手を加えてみたと言うなら、文学と現実をあまりにも安易に接続しようとしてしまったというほかない。そんなことでは現実にかすりもしないのは繰り返すまでもあるまいが、幻想的な世界がリアルな世界を描いた文学よりも現実に届く場合もある、というパラドックスを信じるべきである。ハリウッドの仰々しい恐怖映画よりも、姿を見せずに気配だけを漂わす小資本映画の方がよっぽど怖いものだ。「神様」を楽しく読みながらもこの種の怖さが感受されるとすれば、この作品こそが根底において現実世界に接続しているからと考えるべきだろう。「神様」は「童話風」ではあっても決して「童話」ではない。教室でそこまで読みを進めることができないとしても。

「神様2011」などを書くよりは反原発のデモに行くべきだったというのは、川上本人だけでなくこのヴァージョンを支持・評価する批評家・研究者に対しても言えよう。フクシマの惨状を見かねて黙っていられなくなる心情は分からぬでもないものの、安易な方法で免罪符を担保しておくよりは黙って堪えるべきだ、というのが私の考えである。知人から『〈3・11フクシマ以後のフェミニズム』(御茶ノ水書房、2011)を贈られたものの、礼状を書けぬままなのはいつもながらの怠惰からではない。机上でアリバイ作りに精を出していれば許される、と思い込む研究者の心根に共感しかねるからである。言葉による創造者と同じく、言葉に関わる文学研究も安易に現実に接続したがると誤りかねない、と知るべきである。
短編集『神様』や『蛇を踏む』の読者にとどまっていた初心の身にとって、松本和也川上弘美を読む』(水声社、2013)はまことに手際よく先行文献を漁って紹介・引用してくれていて役に立つ一冊である。若くして太宰研究では一家を為した松本氏の太宰論には教えられることが多々あったけれど(若さと達成度からすれば安藤宏以来という印象)、論自体の水準からすれば川上論は太宰論に比すまでもなく粗すぎて説得力に欠けている。ナマ物(現役作家)を研究対象に選べば、冷静な判断や対象からあるべき距離を置いた読解も困難になるのは已むをえないということか。興味深いのは太宰研究においてはイデオロギーのように〈作家〉を否定していた松本氏が、川上論では臆面もなく〈作家〉を論に取り込む自在さを獲得していることである。結果として論に奥行きと拡がりが出る可能性を持ったということだが、それに対する評価は一律ではあるまい。以下〈作家〉の扱い方を含め、松本氏の川上論をたたき台にしながら私読を進めていくことにしたい。論を構築するためにはシッカリした土台が必要であり、研究の素地が十分な松本氏の論考は、当方の文学観とテクスト読解とを対決させて磨き上げるには、この上ない試金石であり問題提起に満ちている。

《「わたし」に関する最大の謎は、「くま」との会話能力をおけば、その性別である。小谷野敦が(略)指摘する通り、《『神様』連作を注意深く読んでいくと、「わたし」とされる主人公が女であるという決定的な徴は、容易に見つからない》。このことは、「くま」との関係において重要なポイントの一つとなる。》(二二頁)
ナマ物(同時代文学)を扱う時に危険なのは、批評家たちの放恣な思い付きに振り回されやすいことである。過去の遺物から十分な距離をとって対象に向かう研究者と異なり、批評家は発表されたばかりの作品に対して、そのつど読み応えのあるコメントを要求される立場にいる。また、批評文の目的は話題となり売れることなので面白ければ許容されるが、研究論文は面白いだけでは百害あって一利なしの無用物であり、精密な論理や実証が不可欠とされる。研究者が評価の定まらない同時代作品に向かう時、論理を欠いたウケねらいだけの批評(家)に足元をすくわれる例には事欠かない。松本氏はこの危険を十分意識していたとは思われないのが難点である。
例えば「神様」において「わたし」の性別がそれほど「謎」で「重要なポイント」になるのだろうか? 小谷野氏がどういう趣味と傾向の持ち主なのかは聞き及んでいないが、「わたし」が女性に限定できないという感受とヒラメキ(に面白さを感じる読者がいるかもしれないものの)に研究者である松本氏までが引き寄せられ、《「わたし」については男とも女とも書いていない上に、その手がかりさえもない》(同前)と言い切るまでに至ると、想定以上にメンドーな教材を教育現場に送ることになる心配と戸惑いを覚えるばかりである。
もちろん作者が女性だから「わたし」は女性に限られる、と言ったらただのバカである。しかしオスの「くま」の「わたし」に対する態度・姿勢からすれば、大方の読者が「わたし」を女性とするに違いないと思ってしまうのは、「草食系男子」の時代から取り残された老人の思い込みにすぎないのか、或いはあまりにヘテロな私の偏見なのであろうか? (このヘテロ過ぎのために、三島由紀夫のホモ的側面に理解が及ばないもどかしさと、三島文学への理解に対して限界を感じ続けている。)
《くまは袋から大きいタオルを取り出し、わたしに手渡した。
「昼寝をするときにお使いください。僕はそのへんをちょっと歩いてきます。もしよかったらその前に子守唄を歌ってさしあげましょうか」
真面目に訊く。
子守唄なしでも眠れそうだとわたしが答えると、くまはがっかりした表情になったが、すぐに上流の方へ歩み去った。》(「神様」)
 オスである「くま」の「わたし」に対する細やかな心配りとハニカミぶりは、「わたし」を女性とすればこそ効果的だと思われるのだが・・・。特にオス(男)が男のために子守唄を歌う姿は、想像するだに気持ち悪くなるのは私だけなのだろうか? 性的マイノリティに対して理解ある社会になってきたのは喜ぶべきことで頭では賛同しているつもりではあるが、美意識が頭に追いつけないのは致し方ない。ことは私個人の問題にとどまらない。
姓差別を避けるために「わたし」を男とする読み方にまで授業時間を割くとすれば、いわゆる逆差別となり生徒へのアカデミック・ハラスメントにもなりかねない。そうした読みの可能性が開かれているとした、批評家・小谷野氏の思い付きには虚を突かれる思いはしたものの、個人的には面白い批評とは感じないのも已むをえないだろう。
もう一点、非「装飾系男子」あるいはヘテロの眼から付しておけば、「わたし」が「雄の成熟したくま」だとか、「男性二人子供一人」というように性別や成熟具合に注目する(「大人二人子供一人」という括り方はしない)のは、「わたし」が女性だからとした方が素直な理解と思われる。

 松本論に対する疑義を続けよう。
 《その上、先に指摘したように、「くま」から野生動物としての危険性が排除されていない以上、「わたし」にとって「くま」との抱擁は生命を賭した行動に他ならない。しかも、こうした結末部に対する解釈の方向性は、(略)川上弘美本人の発言とも共振している。》
(三〇頁)
 「共振している」とは上手い言い回しだと感心したが、要は〈作家〉自身の《「くま」がなにを考えているのかわからない怖い奴だということをけっこう書いたつもりだったんだけど。》(同)という発言を傍証にしたいということであり、初歩的にして根本的な誤りになりかねない。〈作家〉が制作モチーフとして語ったものが、そのままテクストとして実現されると考えるのは初心者の短絡であり、また完成され発表されたテクストは〈作家〉とは切り離して読むというのが現代の常識(流行)だからである。〈作家〉がどんなつもりで書こうが、テクストの「わたし」が「くま」を「怖い奴」だと意識している証左はどこにもない。「怖い」と思えばそもそも散歩の誘いに応じるわけもなく、「くま」と共有した時間を《悪くない一日だった》と集約するはずもない。だから「くま」と交流する「わたし」に「コミュニケーションへの勇気」や「生命の危険」までも読み込んでしまう松本氏は、もはや太宰治論の沈着さを喪い、多くの先行論の中で自失していると言うほかない。松本氏のような教員に「神様」の授業を任せるのは「危険」極まりない(正直のところ、「シッカリしろ!」と声を掛けたくなる。)
 《あわせて、類を異にするものとしてまなざされる「くま」の潜在的な危険性や、「くま」と散歩に出て抱擁まで交わす「わたし」のコミュニケーションへの勇気も同時に読みとっておくべきだろう。》(二八頁)
 《ともすると「くま」と「わたし」のメルヘンとみまがいがちな「神様」は、実は、両者がお互いに類を異にするもので、それに伴う距離や生命の危険性、他者への緊張感までが書きこまれたスリリングな小説なのである。》(二九頁)
 「くま」の「危険性」、正確に言い直せば「熊」の危険性を感じているのは「わたし」以外の人間であり、「わたし」が「くま」との交流をそれなりに楽しんでいるのは確かである。「危険性」を感じていたら、河原で安心しきって昼寝などできるわけもなかろう。《どの車も徐行しながら大きくよけていく》のは「くま」を「熊」と認識して「危険性」を感じているからである。しかし「わたし」以外にも、他に「くま」を「くま」とみている者が登場して笑わせてくれる。
 《子供はくまの毛を引っ張ったり、蹴りつけたりしていたが、最後に「パーンチ」と叫んでくまの腹のあたりにこぶしをぶつけてから、走って行ってしまった。》
 子供は「危険」な熊ではなく、親しみやすい「くま」だと思い込んでいるから、「くま」を遊び相手としてしか見ていない。相手が遊びに応じなければ、子供は別の楽しみを探しに行くまでである。つまりは大人の人間たちは皆「くま」を危険な熊と見ており、「わたし」と子供(おそらく登場しない子供も皆)は「くま」を熊でなく「くま」として受け止めているのである。獣と人間との境界を越えて人間世界に生きている「くま」を「わたし」と子供たちはそのまま受容し(ようとし)ているのであり、大人たちは獣と人との二分法に囚われたままでいるということである。先行論の多くもこの二分法から自由でないようであるものの、他ならぬ松本氏が引用している千石英世氏は他の批評家とは一線を画す明晰さで川上弘美を読んでいて信頼できる。
 《「くま」と「わたし」では、はなから生物的性の出会いたりえなかったのだ。生物的性の出会いでないならば「わたし」は必ずしも「ひと」の「雌」である必要はない。文法的性において女性であっても、つまり、言葉遣いが女性的であっても、生物的性において女性でなければならぬ理由はない。むろん女性であっても、「雌」であっても構わない。ということは、「わたし」の性別は無性や中性というのではない。むしろ「わたし」の性別は、性の多様態、こんな言葉はないのだが、多性である。もしくは汎性である。でなければ未性、性の未分化状態にいるのだ。この未性の要素が、川上弘美において童話風の情景を引き出すのである。》(『異性文学論』ミネルヴァ書房、2004)
 他の論を圧倒する面白さを伝えようと思ったら引用が長くなったが、千石説では「性の未分化」や「未性の要素」はあくまでも「童話風」に通じるという所でとどめているところを、松本氏は
 《そのことにくわえ、作品世界の輪郭に曖昧さが漂い、人物像も曖昧になることで、現実世界の読者と等身大(傍点)に書かれた「わたし」の位置は、ことさらに性別や年齢を気にすることもなく読者自身が役割代入できるスペース(=参照点)になっている。》(二三頁)と続けている。そもそも「読者自身が役割代入できるスペース」は、松本氏が言うほど語り手や登場人物の設定に左右されるものであろうか? 
 「神様」の「わたし」ももともと性別や年齢に関係なく読者が自然に「役割代入」できるようになっているからこそ、読み手を作品世界に引き込んでいくのだと考える。問題は読者の性別や年齢などではなく、何よりも語り(言葉)の力だというのが私の文学観である。太宰の「女語り」の傑作群が、読者の性別・年齢を超えて「役割代入」を容易にしながら感動させるのは、太宰テクストの言葉の力ではなかったのか!
 
 松本氏の論を読んでいて思わず苦笑が洩れた箇所がある。
 《名づけることが所有(認識論的な領有)を意味するならば、名を問われて「呼びかけの言葉」しかこたえない「くま」は、明らかに「わたし」との距離の確保を図っている。「わたし」もまた、(略)明らかに自身とは類を異にする他者としてまなざすことで、同様の距離を保とうとしている。してみると、この二者間の他者性は、単に類を異にすることにくわえ、双方が意図的に形作る距離に起因するものなのだ。》(二四頁)
 「他者としてまなざす」とか「双方が意図的に形作る距離」とか、相変わらず承服できないが、笑えたのは「名づけることが所有」を意味するという言い回しである。それ自体は少しもおかしくないものの、個人的に過去の一場面に結びつくのである。松本氏がまだ院生だった頃か、他の立教大院生を交えた酒席で(?)、非常勤講師だった私が主に男子学生をニックネームで呼んでいたことが話題になった(ヒッキ―とかムックとか姓を捩ったもので、松本氏は後に名前からガチャとなった)。理由を問われた私が《名付けることによって所有するのだ》と応じると、感心した様子の声が和した。出典は山崎正和『鷗外 闘う家長』だとその場で明かしたが、事は「舞姫」においてドイツ語地名を語り手が「僧坊街」等と和訳して記すのを、山崎が右のように論じた面白さにある。松本氏もこの名言に心を打たれた様子だったので、意識したのかしないのかはともかくもこの言葉が川上論にヒョッコリ顔を出したので、思わず苦笑したしだいである。
 ただし「くま」が名を教えないのは「距離の確保」を図っているからではなく、「名前はまだない」からにすぎない。新しい、したがって「余所余所しい」響きであろう名前に呼ばれるよりも、「縁(えにし)」に基づく気安さで心の籠った「貴方」と呼ばれることを望んでいる。そうした「くま」の気持は距離を保とうとするどころか、それを埋めようとしていると読むのが自然であろう。「わたし」が「くま」を「貴方」と呼ぶ場面は語られていないものの、「暑くない?」と訊ねたり、次回の散歩や抱擁を拒否しなかったり、もらった魚を躊躇なく食べたりするというのは、「くま」との間に距離をとろうなどとはしていないからである。また松本氏が強調する「他者性」を感じているのは、「くま本来の発声」(この「くま」は「熊」表記の方がベター)や「匂い」や体温(冷たさ)に気付いた時であり、「わたし」はそれを嫌悪したり拒絶したりするわけでないから、二人の関係に「他者性」を前景化させるのは間違いの元である。
 さて松本氏の「神様」論は三二頁までであり(全体は五〇頁まで)、続いて「草上の昼食」の方に話題が移っていくので、ここからは松本氏から離れたい。「草上の昼食」を「神様」の続編として受容する読み方を否定するわけではないが、この作品を「神様」のテクスト理解にフィードバックさせるのは本末転倒だと考えるからである。教室では「神様」は当然「神様」一作で読むからという理由からだけではない。「神様」は本末転倒を利用しなければならないほど軟弱なテクストではなく、「草上の昼食」や「神様2011」と一緒くたにされるのを拒絶して自足しているからである。「神様」単体で読めないようなものなら、発表当時にあれ程の賞讃を受けるはずもなかった。
稀にみる優秀な研究者である松本氏が読み違えるほどであるから、他の先行論も作品理解に混乱をもたらすような無謀な読み方も少なくない。教室で読んでいく上で一番困るのは、「神様」をアレゴリーとして捉える読み方である。百歩譲ってアレゴリー理解をするにしても、テクストだけの読解が終ってから「発展」として寓意を想像する作業があってもいいが、いきなり寓意するところを考えさせては、テクストを細部まで読むという基本的で根本的な作業と教育的観点を放棄することになってしまう。「神様」に限らずテクストの言葉を百パーセント整序化できないのは当たり前であり、テクストが醸し出している不思議な世界の味わいと楽しさをそのまま鑑賞させるのが第一である。「くま」が熊でありながらも「わたし」と交流できる「くま」だからこそ面白いのであり、いきなり「くま」は何の喩だろうか? などという疑問を投げかけるのは最悪の授業である。最初からそのような疑問を提起したがる賢しらな生徒には、まずは「くま」を「くま」として読んだ時に開けてくる豊富な作品世界を味わうように仕向けるべきである。
 寓意読みの否定を強調しておきたいのは、指導書に実際例があったからである。筑摩書房「国語総合」(新課程)がそれで(編集や執筆との関わり方は不明ながら、末尾に小田島本有氏の名が記されている)、ハナから「教材のねらい」で《現実離れした物語の中に、〈他者〉との出会いを寓意的に描き出した小説である。》と断言しつつ、続く「授業の要所」でも《「くま」とはどのような存在なのかを考えさせることを通して、この物語の寓意的な性格に目を向けさせる。》とハデに打ち上げている。筑摩も堕ちたものだ、というのが素直な感想である。というのも私の高校時代は一貫して筑摩の教科書を使用していたので、他の教科書があることすら後になって知ったくらい信頼していたからだ。ともあれ指導書はあくまでも教科書の「学習の手引き」等に基づいて書かれるべきものであるから、一般的な問題としては指導書執筆者の独走とは言いきれない。
 事実筑摩の手引きの「表現」には、《「わたし」が男性であるか女性であるかによって、物語の印象はどのように変わるか、話し合ってみよう。》と前述した危惧が堂々と記されていてド胆を抜かれた。筑摩の編集委員の現代文分野には、確かな読みのできる研究者が名を連ねていたと記憶するが、私より年少の人ばかりで少々賢しら(頭脳先行)な傾向に奔るのでは、という懸念が現実となった形である。手引きの「表現」の指示は暴走という外ないが、ちなみに指導書の解答例は次のとおりである。
 《初読後に生徒に感想を聞いてみると、「わたし」を男性と考える生徒は決して少なくない。しかし、「わたし」の性別は確定されていないので、読み方は自由である。》
 意識的にか、さりげなく正面からの解答を避けている感じで、編集委員の設問設定に応えきれていない。初読後に仰々しく「男か女か」と問われれば、「女とは言いきれないのかもしれない」可能性から男と考え始めることはありうる。しかしそこから一気に「読み方は自由である」と明言していいものか? 「こころ」や「春琴抄」のテクスト(本文)を冒瀆した恣読に沸き立った恥ずかしい読みの歴史を思い浮かべるなら、「自由」という言葉は軽々しく発すべきではなかろう。無恥が無知を動かした(放恣な読みにオバカな読者がハメられた)苦々しい歴史をくり返してはなるまい。あの軽薄さからどこまで自己を差異化できるのか、現場の教員の知的レベルが問われているのだ。
 記述したとおり、男が同性に子守唄を歌って聴かせる情景を想像させながら、その不自然さに耐えつつも男と想定する読み方の必然性を展開しないかぎり、ただのどうでもいい思い付きに空しく授業時間を割くことになってしまう。これに関しては指導書執筆者に押し付けずに、しかるべき立場の編集委員が責任をもって解答すべきである。ちなみにもう一つ参照した明治書院(旧課程)の指導書は、細部については異論も多々あるものの、筑摩版のような奇異なハミ出し方をしていないので許容できる。その「まとめと発展」では、目新しい情報とともに女性説を取る立場が明言されている。
 《年齢も性別も職業も不詳で、読者なりの「わたし」姿(ママ)が探られるのである(初出の雑誌の挿絵では、「わたし」は男性の服装で描かれていたが、女性をイメージする読者も多いであろう)。》
 
話をアレゴリー問題に戻すと、筑摩版教科書の手引き等にも「寓意」という言葉はどこにも記されていないので、一般的な次元ではなく指導書執筆者の独走ということになりそうである。思い浮かぶのは、「わたし」の性別を含めて丸投げされた執筆者が、関心を持てない性別問題を当たり障りなく回避する一方で、指導書の項目である「教材のねらい」では恣読を「自由」に書いてしまったという事情である。だから「主題」の項目で二百字と百字のまとめ方いずれにも、「くま」の人間世界に溶け込むための「ひたむきな行為」が前景化されることになる。結果として《それを理解できたのが「わたし」だった》というように、「わたし」は後景に退いてしまっている。執筆者はここでも、誰を主人公にして読むかは読者の「自由」だと言いたいのかもしれないが、「くま」に一元化するのではなく、「わたし」と「くま」の交流の物語、あるいは「わたし」が「くま」と出会った奇異でいながらも充実した体験談として読んでみるのが、最初になされるべき読解であろう。
とはいえ「わたし」を重視するあまり、「わたし」に過剰な意味を担わせてはなるまい。ここでも筑摩書房の指導書は踏み外している。「叙述と注解/学習のポイント」の「悪くない一日だった」の項目は以下のとおり。
《この「くま」の「成熟」ぶり、「何から何まで行き届いた」気配りを「わたし」が感じ取ったがゆえの感想である。「男性二人子供一人の三人」が「くま」に対して無遠慮な態度をとったが、それも「くま」の大人の態度で危機を免れた。「わたし」そのものがそのような人間たちに違和感を覚えるタイプの人間であったことがうかがえるが、それらをひっくるめて「わたし」は「悪くない一日だった」と振り返るのである。》
「くま」が身体だけでなく精神的にも「成熟」しているお蔭で「危機」を回避できたのは確かだが、「無遠慮な態度」をとったのは前述のとおり子供の親しみ表現であり、親たちは戸惑っているだけで「無遠慮」だったわけではあるまい。だから「わたし」を彼らから差異化し「そのような人間たちに違和感を覚えるタイプの人間」などと大仰に意味付けるべきではない。ありがちで賢しらな読み方であって、テクストによってはハマルこともあるやもしれぬものの、「神様」では深読みの愚に属する。
筑摩ではさらに「キーワード」の「他者」の項目で、「草上の昼食」を引き合いに出して「わたし」と「くま」を「似た者同士」としているが、これも既に指摘したように「草上の昼食」の読みを「神様」にフィードバックさせてはならない。こうした把握を鵜呑みにして授業をされては、教室に誤読と混乱をもたらすだけである(「草上の昼食」のプリントを配布した上で、「神様」の続編として両作品をくるめて読むという授業なら話は別である)。

さて以上の先行論批判に基づいて、物語が始まる前の「くま」が生きている世界を確認しておこう。
「くま」(「熊」ではない)という存在が人間社会に広く受け入れられているとは言いがたいものの、「わたし」の父のまたいとこが助役を務める某町では、人々と共存できていたのは間違いなさそうである。町民との間に葛藤があったために「わたし」の住む土地に越してきたのかもしれないが、「くま」が某町で生きるに際して助役の尽力があったことはうかがえる。「くま」が人間と共存している土地がそれほど多いと言えないのは、「わたし」の住む「近隣にくまが一匹もいない」ことや、「くま」に対する「近隣」の人々の示す違和感から読み取ることができる。しかしアパートの住人は葛藤を抱えている可能性があるものの、引っ越してきた「くま」を拒絶している様子はない。近隣の「くま」がいないことをわざわざ確認するということは、人間社会に「くま」がいても不思議ではない共存状態であることを明かしている。そういう状況下で、「わたし」や父のまたいとこは「くま」に対してとりわけ親和的な傾向の人間だと言えよう。
もちろん「わたし」が完全に「くま」と打ち解けているわけではなく、「くま」という異類に対して意識的である。それは「くま」の態度を「昔気質」とか「大時代」だとか評することからも分かるし、車に乗った人や河原にいた人々の反応を観察する目線からも理解できる。「わたし」自身の感覚も、異類としての「くま」を新たに発見している。
《くまの足がアスファルトを踏む、かすかなしゃりしゃりという音だけが規則正しく響く。》
《言葉を喋る時には人間を同じ発声法なのであるが、こうして言葉にならない声を出すときや笑うときは、やはりくま本来の発声なのである。》
《くまの匂いがする。反対の頬も同じようにこすりつけると、もう一度腕に力を入れてわたしの肩を抱いた。思ったよりもくまの体は冷たかった。》
アスファルト上を歩く「くま」の足音を「しゃりしゃり」と聞き取る意識は鋭い。またゼミ発表では、「くま」の「臭い」と言わずに「匂い」と表記するところに、「わたし」が「くま」を嫌悪しているわけではない表れだとする津久井氏の見解も示された。異類に対して寛容な「わたし」だからこそ、「くま」の意識も類を超えて「わたし」に心を開いたのである。
《「(略)熊の神様のお恵みがあなたの上にも降り注ぎますように。(略)」
部屋に戻って魚を焼き、風呂に入り、眠る前に少し日記を書いた。熊の神様とはどのようなものか、想像してみたが、見当がつかなかった。悪くない一日だった。》
「あなたの上にも」の「も」にこそ、熊の世界を越境して「あなた」との共存を夢みる「くま」の期待が読み取れるというものである。それに応えて「わたし」も「熊の神様」を「想像」してみるのではあるが、「見当」がつくはずもない。異類同士の神である以上「想像」にももともと限度はあろうが、「わたし」は「くま」と過ごした一日を「悪くない」と肯定的に締めくくるわけである。「神様」という表題が必ずしも効いているテクストとは思えないが、類の絶対神を守って自己閉塞することもなく、共存し合う夢を見せてくれる有り難い「神様」ということであろう。