立教大学学会  研究発表の感想

(忘れないうちに記しておきたいとは思いながら、このところ桐原の教科書の教材探し等の「業務」でなかなか時間の余裕が無い。)

4日の立大学会を聴いてきた。
先般の学大の学会では3本も発表聴いて満腹したけれど、立大でも2本の発表と講演を拝聴して充実した時間を過ごさせてもらった。
一昨年(?)授業に来ていた2人の発表は、少々責任感を持ちながら聴かせてもらったものの、ナカイマンのは肝心の崎山多美「水上往還」を事前のに読むことができなかったので、今の時点では詳しいコメントができない(申し訳ない!)。
ユウタ君のは大好きな作家・梅崎春生だったけれど、「飢えの季節」というショーモナイ作品を取り上げるというので期待せずにいた。
そもそもテクストの結語《ほんとに私は何と長い間おなかを空かせてきたのだろう!》という1文がテクストを全然集約しきれていない。
こんな作品なぞ論じきれるものではないのに、よくもチャレンジしたものだ?! というのが素直な感じだった。
ところがそんなものでも何とかツジツマを合わせて論にしてしまう(できてしまう)のがユウタ君の技、といったところ。
「願わくは当の作品以上に面白い論文を書け!」というのがモットーながら、ユウタ論は作品を超えそうで超えきれないモドカシサが残った。
与えられた発表時間があまりにも短かったせいもあったが、後で読み返してもスッキリしない点が残った。
休憩時間に話しに来てくれたので当面の疑問は解いてもらったものの、未だに腑に落ちない点がいくつか。
先行研究が「羅生門」の「エゴイズムの肯定」に短絡しているのを否定するのは当然としても、正当に「語り」に注目しながら「二年後からの回想」の特質が上手く読めきれていない憾みが残った。
とはいえテクストそのものが上記のように捉えどころの無い結語である以上、二年前と差異化される現在の状況を明確にするのはしょせん無理な話かも。
「テクストの細部を立ち上げろ!」というのがもう1つのモット―であるが、ユウタ論はその点で冒頭部分の「南部線の始発電車のひびき」を読みに繰り込むしなやかさを見せてくれた。
これが昌平橋近くの外食食堂に向かう途次に見かける省線電車の「下部構造」に対して、「醜悪な色情」を感受してしまう「私」の在り方につながるのだとは気付かなかった細部だった。
言われてみれば、冒頭部に「幻の食卓」という「聯想の乳房にしゃぶりつく」という表現も見つかる。
「復員」した「私」の「軍隊の一年半の生活」からすれば、戦後の日本の状況は「狂った世界」にしか見えない状況下で、「私」は「芸術家のたましい」を失いかけている。
そうしたメタ的視座を保持している「私」の〈選良意識〉は、英語の得意な長山アキ子に通じるものがあり、2人には同族嫌悪のバリアを張り合っている。
隣席の男である佐藤と違って、アキ子がフルネームで語られるのもそうした意識の現れか。
テクスト末尾でアキ子が待遇改善運動の末にクビになったのを知った「私」が何もコメントできていないのは、動揺の大きさを示しているとも読めよう。
「私」にとって2人を分かつ表象が芋であるが、《ひとかけらの芋のために全世界を売ってもいいというような価値の転倒が、未来のある瞬間に私の胸に結実するかも知れなかった。》と考える「私」の意識の中に、「一杯の紅茶のために世界を失ってもいい」とまで言明した「地下生活者の手記」(ドストエフスキー)の言葉があったかどうか、気になるところである。
「売りわた」すべき「思想」や「芸術家」としてのプライドを保持していた「私」なら、当然「地下生活者」を念頭に置いた言い回しであるはずだろう。
ついでながら「私」は小説家のT・Iと相同性を感じているからこそ、借家の「あるじ」に同調することに「芸術家のたましい」が傷ついているのである。

また会場でのリン先生(ユウタ君の指導教員?)のツッコミと重なるのかどうか分からないけれど、ユウタ論が「私」と会長の「理想」を一括して論じるのは賛同できなかった。
「私」は「夢想」や「妄想」という言葉でも語るので、それを「理想」の一言で括ってしまうのは、それも会長の営利的な「理想」と一緒くたにされると説得力を感じない。
もう1つ説得されないのは論の末尾で言う、「私」が「自身を中心とした個と個の関係性のなかで考えながら生きていく」というところだ。
この「個」とは具体的に誰をイメージしているのだろう?
そもそも「私」は他者との「関係性」を課題にする前に、自己関係に問題を抱え続けているように思えるがどうだろう?
テクストの冒頭からして、「私」は「身体」に「眠り」が残っているのに「意識」が覚めてしまうという自己分裂を呈した状態を露わにしているのである。
軍隊にいた時に、残飯の山を見つめる痩せこけた老兵の「人間の眼」ではない眼と同じ眼を食堂の中の自分に感じる度に、「私」は「意識」と「生理」の葛藤に苦しんでいる。
ユウタ君には自己関係・他者関係・社会関係のそれぞれの様態をシッカリ踏まえた上で、「個と個の関係性」を再検討してもらいたいものだ。

(補記)会場で大木志門さんを見かけたので、何か語るべきことがあることは思い出せたが、それが何であったかに気付いたのは自家のある国立駅を降りた後だった。
    昭和文学会の発表要旨で、「黒い雨」についての大木さんの意見に疑念を感じたものだ、ということを思い出したが後の祭りで老化の進行、ナサケナイ!