立大学会発表(その2)

桐原の教科書の仕事から一時的に解放されたので、気になっていた(その2)を。
当日のプログラムの最後に楽しみにしていた崎山多美さんの講演があったので、前述した2人の発表の後は眠っておいて講演に備えようと当初から考えていた。
学大ならば研究室で昼寝をしていたところながら、他大学ではそうもいかない。
ところが一番関係無さそうな原克昭という方の「中世日本紀」をテーマにした発表を聴き始めたら眠れなくなってしまい(専門外でも興味をソソラレルものが結構あるものだ)、続く金子明雄さんの発表はほぼ完全に熟睡していた。
研究者としての実力でも、(教育者としての)人柄の上でも悪く言われることのない方だとは聞かされていたものの、縁遠い明治文学それも大嫌いな藤村論だというので遠慮なく寝かせてもらった。
目覚めたら後で聴いていたムック君が感銘を受けた様子だったのでチョッと損をした感じだったけれど、後でレジュメを読めばいいし、いずれは論文として発表されるだろうから悔いはなかった。
そもそも「新生」自体を読んでないし、「破戒」と「夜明け前」(の3分の1ほど)以外の藤村は今後とも読もうとは思ってないと断言してムック君にバカにされたくらいだから、金子論の導きで藤村が読めるようになるかもしれない、という期待が無いわけでもない。
というわけで今日、金子さんのレジュメを拝読したわけだけれど、「はじめに」の2《「新生」は「真実」をどこに開示

(と、ここまで記していたら突然パソコン画面が消えてしまった!
 なんじゃ! どうした? スイッチを何度押しても起動しない。
 雷のせいじゃないよな? ワケが分からないけれど、幸いジャミラが留守なので続きをジャミラのパソコンで手短に。)

ともあれ「はじめに」の2と3にイイことが書いてあるので、期待しつつ楽しんで読めた。
もっとも、「新生」の物語を読み替えることは可能か、という3の問題には十分応えられているとは思えなかったけれど、論者の実力は十分に伝わってくるレジュメだった。
たくさん引用されている同時代評の中に読める作家として認めている近松秋江のものがあり、それ自体は特筆するほどのものではないながら、視野が限られたところでウジウジしたことしか言えない藤村や同時代批評に比べると、改めて秋江の面白さ・凄さに思いが及ぶ。
藤村も秋江のようにアッケラカンと虚実を超えてフィクションを築くことができれば、あれほどツマラナイ作品ばかり書かずに済んだろうにと思うと、やはり藤村を読む気が萎えてしまう。
藤村のみならず、金子さんは山本芳明ともども退屈な長与善郎までをも読み込んで面白く論じているようで、小説よりも論文の方が面白い類の作家なのだろうと察したしだい。
資料によれば花袋が四十を超えて「恐ろしい倦怠と単調と不安」に襲われたそうであり、藤村のみならず抱月も含めてそうした実生活の「危機・倦怠」からの回復・救済としての「犯す」(蘆花資料)そしてそれを「書く」という、今では言い古されたパターンにハマったというのじゃなァ〜。
金子・山本論は《テクスト空間は、物語られる時空(過去)と物語る時空(現在)によって完結するのではなく、やがて物語るであろう未来へと一直線に延びている。》(金子)として、山本は長与や江島修に即して「未来」を「生長」とも言い換えながら論じている模様。
そこまで言われるとテクスト空間の「未来」ではなく「現在」に興味が集中してしまう身としては、はぐらかされた感じがしてくるのを止めようがない。
ジンセイを真面目一方に生きてきた紳士諸君が、清潔な机上の空論を展開しているように見えてしまうのは、こちらが不純なためであろうかと半生が反省されてもくる(ただのダジャレ)。
お二人よりは少し年長かもしれないが、早稲田では机上の空論にとどまらずに藤村や蘆花に負けじと派手に「実行」を競って学生たちの涙とヒンシュクを買った御仁がいた(いる)ことを思い合わすと、やはり自然主義の本場は早稲田だという相場は崩れそうにないようだ。

以上、記したものが消えないことを祈るのみ。
雷が収まったから大丈夫かな? 関係ないか・・・
それにしても自分のパソコンはどうしたらいいのだろう?