岩田真志氏に反論する  『現代文学史研究』

現代文学史研究』という雑誌については何度か記したのでご存じだと思う。
学芸大創価大の学生・卒業生に書く機会を与えるための機関誌ということで協力を惜しまずに何度が論を載せてきた。
最新第22集にも「三島由紀夫作品の諸相――「近代能楽集」各篇の読み方」という長い論を掲載させてもらったばかり。
敢えて「長い論」と付したのは、前号の第21集があまりに薄いので、少しでも貧相にならないように「近代能楽集」論を分載せずに一気に論じた気持を表すため。
(それを理解できぬままにボケたことを言われたのだから、若い会員たちに対する私の落胆は激しい。)
それにしてお毎回感心にも合評会を継続しているので、野中事務局長たちの熱意と労力には敬意を表するのみ。
その感想文を含めて、年に2度「通信」が配布されるのだが、今号の合評会の岩田氏による「雑感」には腰が抜けるほど驚いた。
前号では、氏は拙稿の川上弘美「神様」論の記述に忍ばせたイロニーまで読みとってくれていたので、今号も三島の専門家としてキチッとした感想を期待していたら、まるで論文が理解できていないので呆れてモノが言えないほど。
とはいえ黙っていれば私の方が絵に描いたような低能ということになってしまうので、学大在職中に無能な村松泰子学長体制に呆れて以来「アタマに来た」状態のまま書きなぐるので、皆さんの判定を仰ぎたい。
私は激しく怒っている!!!

岩田氏の感想は以下のとおりである。
〈各編のテクストを丹念に読み解き私自身大変勉強になったが、「わが友ヒットラー」について《政治は中道を行かねばなりません》とのくだりに関して「三島由紀夫ともあろう者が『中道』を強調するとは何事か?」との違和感の表明があったが、これはまったくの読み誤りで納得できない。これはあくまでもイロニーなのである。また、三島をテクスト外に措ききれていないのではとの意見もあった。〉
「テクスト外に措ききれていない」はそのまま写したのだが、意味が定かではない。「措き」は「置き」の誤字なのか?
いずれにしても三島という作家を、三島のテクストと切り離して自己の外に置くことができてない、という意味のようでもある。
現在、本人に問い合わせ中なので、そう解した上で反論しておいて、違う意味であったら改めて反論し直すことにしたい。
ここで拙稿を全文引用したいところではあるが、発行してからまだ3ケ月しか経ってないので控えたい。
とはいえ岩田氏の非難の意図するところが通じなければ、皆さんの判断も仰げないので該当箇所である前振りの所だけを写しておきたい。

生涯のゴールが見えてきたので、もう三島由紀夫について書くことはなかろうと思っていた。坂口安吾を中心にして最後の本をまとめたいと考えているせいでもあったが、このところ「近代能楽集」の卒論を指導しているうちに、三島文学について自分の理解を記しとどめておきたい気持が強まった。難渋している安吾を一時回避して、しばしの寄り道を試みたい。
その存在の大きさの割には、三島由紀夫文学の全体像をスッキリと捉えきった論考が見当たらないように思うからである。三島の作品論の極め付けである三好行雄の「金閣寺」論を始めとして個別作品論は豊富でも、三島文学全体を論じたものは意外に少ない。もちろん磯田光一の傑出した論が目立ってはいるものの、作家論的文脈という時代の制約を免れていない。あくまでも作家を措いた上で、三島作品のテクスト(本文)の特色を提示しておきたい所存である。《ミシマはやはり小説よりも戯曲だ》と評価している者の一人として、三島テクストの在り方が凝縮して現れている「近代能楽集」で、一様ではないその種々相を一作ずつ読み取ってみたい。
なお「近代能楽集」を論じる者の多くが、三島の自作解説等に言及しつつこれに乗って論を展開しているが、それは三島が嫌った私小説研究の常套手段に堕すものと考える。〈作家〉を主題化することによってテクスト自体の可能性を殺ぐ結果になってしまった論は、私小説と同然で読むに堪えない。当の作家が思いも及ばなかったテクストの面白さ・深さと広さを引き出す(創出する)ことこそが目差されねばならない。

二項対立

「わが友ヒットラー」(昭43・12)の最後の台詞、《政治は中道を行かねばなりません》には当初から異和感を抱かされていた。三島由紀夫ともあろう者が「中道」を強調するとは何ごとか? という疑念を拭いがたかったのである。学部生のころ、割腹自殺(昭和45年)の衝撃の意味を言葉にしようと焦りながら「金閣寺」論を書いた時も、①その結句《生きようと私は思つた》もまた不可解でしかたなかった。その時は差し障りのないように「小説的オチ」として「生き」る方向付けをしたもの、という理解を示した。三島由紀夫ならヒットラー讃歌で幕を閉じてしかるべきであろうし、(モデルの事実に反してでも)主人公を金閣寺の炎の中で死なせるのが妥当であろう、というファン心理の勝手な想定から発する不満に近い。遠い記憶を持ち出せば、蜷川幸雄が三島作品を演出した際にエリック・サティ(たぶん著名な「ジムノペディ」3番だった)を使ったら、コアな三島ファンから《ミシマ演劇なら当然ワーグナーでしょう》という抗議を受けたというように、頑迷なファンの抱くイメージは動かしがたいものである。
 こうした疑念や不満は、三島自身の次の言葉が消化できれば解消されるはずである。
 《セルヴァンテスは、ドン・キホーテではなかつた。》(「小説家の休暇」②昭30・11)
 主人公と作家の同一化は、創造と享受の両面において日本文学の目立った伝統であり、その典型として私小説があるのは言うまでもない。アフォリズムに満ちた三島テクストの中から、飛びぬけて切れ味の好いこのフレーズをエピグラフに選び出した磯田光一は、三島の在り方を《ドン・キホーテサンチョ・パンサとを同時に描かねばならなかったセルヴァンテス》だと説いている。すなわち「愚直な節操をもった殉教者」ドン・キホーテと、「それを嘲笑する傍観者」サンチョ・パンサの双方を自己の内に共存させていた作家の特異性、あるいは日本の伝統に抗う「文学の新しさ」ということであろう。作家の言葉に依りながら、当の作家の本質を射抜いたような磯田の理解は、三島由紀夫研究史でもひときわ輝いている。
 しかしこの大局的な捉え方によって、それぞれの三島作品の様相が見えてくるわけではない。三島文学を二項対立で捉えるのはきわめて有効と言えるが、「殉教者」対「傍観者」の対比だけでそれぞれのテクストが分析できるものでもない。「殉教者・傍観者」の対照は作品によってそれぞれ別の言葉で置き換えられねばならないし、二項対立の用語を強引な手付きでテクストに当てはめても説得力を減ずるだけである。何よりもまずテクスト自体が読めなければ、文学研究は不可能だと知るべきである。

 二項対立というとすぐに「弁証法」を口にするアナクロニズムから脱せられない向きもあるやもしれぬが、三島テクストは対立項が新たな「第三項」に向かって「止揚」されていくという在り方は示さない。対立はどちらか一方が他方に対して優位性を獲得することによって解消されるケースが多く、でなければ最初から二つの項が顕在化されず、「憂国」(昭36・1)のようにひたすら一つの価値観が対立項を持たぬまま形象化されるという場合である。「近代能楽集」のほとんどは対立が解消されるパターンで三島テクストの典型であろうが、「班女」と「葵上」は他の作品群とはベクトルが逆向きだと考えられる。③
 作品名と若年時の疑義を呈したままなので、「わが友ヒットラー」と「金閣寺」(昭31)について現時点の理解を付しておかねばなるまい。前者は緊迫し錯綜した二者択一を強いられたヒットラーが、苦渋の果てに両極を殲滅するという冷酷な「中道」を選択して閉じられる。「中道」など生ぬるいと早合点した未熟者には、「政治」の冷酷さが理解できなかったしだいであった。後者は種々の二項対立を提示しながら、金閣寺という「美」と心中することですべての対立の解消を図ったものと見える。しかし心中が未遂に終ると、〈死〉から〈生〉へと優位性が急に反転するところが、未熟な自分には解りにくかったということであろうか。
(以下、本論として各作品論が続く。)

論文が仕上がった頃だったか、三島で修論を書いて栃木県で高校教員をしているフニャ君に送ったら「よく分かった」という感想をもらって安心したのだが、岩田氏には全然理解できなかった模様。
岩田氏に悪意が無いとすれば、高校教員(埼玉県)の業務でよっぽど疲れていて誤読したのか、合評会のボケ老人の放言に引きずられるまま面白半分で「通信」に記したのか?
前振りと断ったように、「二項対立」の小見出しで書いた箇所全体は、私が学部生だった「当初」の自分を「未熟」な存在としてしながら振り返ったものだ。
「若年時の疑義」と記したとおり、「現時点の理解」で訂正しているのが現在の岩田氏には理解できないなら、現時点の岩田氏は「若年時」の私と同レベルということになって国語の教員としては失格という外ない(などとイロニックな物言いをするとまた誤解されかねないかな?)。

「二項対立」の直前に置かれている前書きで明確なように、三島という作家と彼が残したテクストとを切り離せと強調しているのは私の方だということも簡単に分かるはず。
しかしこれは岩田氏の感想としてではなく、その場にいた別の人の意見として紹介されているので(岩田氏はコメント抜きにそのまま紹介しているので、同意している模様)、岩田氏の意味した所がハッキリしてから改めて反論を加えたい。
幸い合評会に参加したメンバーが列記されているので写しておくと、安藤聡・大久保典夫・倉持三郎・田所直喜・野中潤・山根正博・和田有紀子・岩田真志(名前順とのこと)の8名。
岩田氏の誤読とはいえ、関谷は学部生の頃から理解力の進展が無いと言われるほどの侮辱を受けた際だから、その勢いで言っておきたい。
8名の中で年齢不詳な方もいるのでそれは措く(この字の本来の使い方だと思う)として、他人(特に若い人)の意見に耳を貸さないで放言する老人たちがボケた放言した時に、キチンと訂正・反論して行く姿勢を持たないとボケを進行させるだけ。
岩田氏の誤読がその場で支持された上で「通信」に記したのかは不明だが、意味の解りにくい箇所「三島をテクスト外に措ききれていない」という拙稿に対する誤解を批正できていないということは、その場の全員がその手の低レベルの理解で一致していたのかと思うと研究所のためにオゾマシイ限り。
分けても野中・山根という信頼してきた読み手までが拙稿を誤解していたのかと思うと、研究所の将来は危うい。
お2人にはそれぞれの立場上から老人に対する遠慮があるのは察しているが、議論の場では師弟の関係は無視して論理で闘うという姿勢が無いと老若双方が後退するだけだ。
師匠の三好行雄に公私にわたって盾突いていた私のマネをせよとまでは言わないが、腰砕けの姿勢を続けるばかりじゃあまりに情けない!
私のゼミほど自由に傷付け合う場というのは珍しいようだけれど(初めての参加者は皆驚く)、間違った発言だと思ったら老人に対してもその旨を伝えられないというのは、戦前の言論統制と変わるところが無い(大佐と二等兵かよ!)。
現にこのところ漱石の語りをめぐって宇都宮大修了生のツクボウと、メールで遠慮なくやり合っているところ。
彼が自説を頑固に守り続けるので、こちらも学生時代に戻ったような気持で張り合っている。
(渡仏中の一橋大院生からは、フランス文学の素人老人として素直にご教示を頂戴している。)
実は桐原書店の教科書の仕事に集中しなくてはいけないところなので、こんなことに関わっていてはいけないのだけれど、怒りが激しすぎて仕事に気持が向かないので書いてしまった。
そろそろ仕事に戻らねばならないので、取りあえずこの辺で。

@ 皆さんはよく読んで、遠慮なく賛否のご意見をお寄せください。(メアドは年賀状に記してあります。)