性は開放されねばならない?  木邨雅史  デモ2件

昨日の安吾研究会のレジュメに変換ミスがあったので、ミスした人にもタイトルの名言を伝えておいた。
「解放」とあるべきところを「開放」と変換(誤記)する(逆も)ことはよくある話。
この二つの類語を見事に差異化して言い尽くした名言を吐いたのは、亡き友人・木邨雅史だ。
「性は解放されねばならない。そのためには開放されねばならない。」
入学した60年代後半はヒッピー文化全盛(若い人は知らないだろネ)の時代状況を背景にした警句なのだが、ボクとは違ってあまり冗談を言う人間ではなかった。
それが珍しく気の利いたことを言ったので、未だに忘れない。
木邨のことは亡くなった頃にブログにも記したが、東京生まれの東京育ちの秀才(日比谷高校)だ。
ボク(等)より先にいろんな知識を吸収していてケチらずに教えてくれ、ホイジンガ「中世の秋」を強く勧めてくれたのも忘れない。
まだ知られていない歌川国芳などの美術展に誘ってくれたり、現代詩人・木原孝一もその頃に教えてくれたりしたが、その詩句を書きとめた紙が没後に彼の吉本隆明全集の詩集の中に入っていたのを見つけた。
卒業生との集いで配ったパンフ(?)の中に、ボクが定時制の文芸部再建の記念に書いた生涯唯一の小説「イソップ神話」があったのだが、それに出てくる「古井」という男の後半は実は木邨との体験が元になっている(前半は古井その人だけど)。
10月21日の国際反戦デーで新宿のデモに参加しに行ったのだけど(確かベトナムアメリカ軍に送る飛行機の燃料か何かを運ぶ貨物車を実力阻止するとかいうことだった)、いつの間にか新宿駅構内で機動隊(デモ鎮圧のための専門警察官で催涙弾を装備していた)と衝突していた。
いつもなら蹴散らされるところだったけれど、線路上に降りるといくらでも手頃な石があったので、さしもの機動隊も後退するばかりで学生が彼らを駅校内から撤退させたのは痛快だった。
あり得ないことが起こったせいか何と騒乱罪が適用されることになり、その場にいる者はだれでも逮捕しても構わないということになり、学生たちは新宿から離れ始めたわけだ。
木邨とボクは回り道をしながら渋谷に行き、そこの深夜喫茶で夜を明かしてから駒場の第八本館(バリケード封鎖中でボクのクラスは武力が質量共に優れていたので部屋を割り当てられていた)に帰ったしだい。
木邨とはその翌年の4月28日にも2人で「沖縄デー」の名目のデモに参加したが、その時は東京駅から線路上に降りて有楽町に向かったものの、前後を機動隊に挟まれた学生たちは浮足立って逃げ始めた。
線路上でいつの間にか木邨の姿を見失ったまま、他の学生のようにガード上から飛び降りる決断もつかず(多くは骨折したように見えた)グズグズしていたら、中核派の活動家がガード下の呑み屋の屋根に降りる穴を教えてくれたので、怪我もせずに降りることができた。
木邨はその後に線路上で逮捕されたことを知ったが、未成年ではなかったのに(高校時代病気で休学したので1つ年上だった)完全黙秘を貫いたので23日間拘留されてから出てきた(未成年だと分かると○○のように下宿の小母さんに親代わりになってもらって2週間で出てこれた)。
参加をしぶったていたのに無理に誘ったボクとしては忘れがたく罪意識を引きずっていたけど、木邨本人はいつものように何も気にしてない様子だった。
2人で北海道を3週間テント旅行をしたのはその年の夏だったのか、前の年だったのかハッキリしないのもボケの症状だけど、ゴーゴー喫茶も含めてデモ以外はだいたい木邨が誘う側だったのは忘れない。
お蔭で大自然や若者文化を味わえたわけだけれど、寺山修司天井桟敷の誘いだけは断ってしまい、文学研究するようになってから残念な思いを引きずることになった。
その時に一緒に行ったのが木邨夫人になったのだと記憶する。
大学院に進学していれば間違いなく優れた研究者になったろうと思うが、勉強はキライだと言いながら早目に結婚して就職したのも、ボク(等)より遥かにオトナだなぁ〜と感じさせられたものだ。
会社員だったので一足早く退職していたので、ボクも退職したらまた2人で美術展などに行きたいと思っていたやさきに、検査のための病院で急死してしまったので悔しくてならない。
予期せぬままに木邨のことばかり記してしまったけど、亡くなった頃にいずれ彼について書きたいと思っていたので、これに代えたい。