松本和也『昭和10年代の文学場を考える』  『繍』

テレビ番組のことまで記しているので、何も読まずお勉強もしないように思われても困るので、桐原の仕事が一段落した後の読書についてチョッと報告。
専門は昭和文学だと自覚しているので、贈っていただいたたくさんの本から松本和也『昭和一〇年代の文学場を考える』(立教大学出版会)を中心にしながらボチボチ読んでます。
この著書は画期的なもので今までの文学史を塗り替えるほどの衝撃力を感じるのでいずれ詳しく紹介したいけれど、「一家に一冊」とおススメしておきたい。
選考委員がキチンとしているその手の該当する賞があれば、当然受賞して然るべき達成を示している研究書だ。
和文学というとボク等は平野謙の本から多くを学んだものだけれど、平野が同時代人として肉眼で見聞した物事を元に考察したとすれば、松本氏は鳥瞰図よろしく俯瞰する見地から分析しているので別の対象を論じているほどの違いがある。
平野には同時代人らしい思い込み(切実な夢?)があってボク(等)はそれを批判しながら研究を始めたわけだけど、平野と比べると松本氏は広い視野から綿密かつ客観的な姿勢で資料を(網羅的で驚く)読み込み、斬新な捉え方で「文学場」の流れを提示してくれるので刺激満載である。
平野から出発した我々から比べれば、松本書から昭和文学史を吸収できるこれからの研究者・学生は幸せで羨ましいかぎり。
去年の安藤宏『近代小説の表現機構』(岩波書店)も高い達成だったけれど、関心が少々ズレるのでまだ十分に読み込んでいない(読んだらいずれ)。
興味が重なる松本書には昭和10年代の文学史を〈読み換え〉ていると受け止められたので驚いたわけだけど、その驚きをぜひ自分で体験してもらいたい。
テクストや作家を〈読み換え〉ることはボクもやってきた自信があるけれど、文学史を〈読み換え〉るという離れ業は膨大な時間(読書量)と特別な知見を要するので稀な達成なのだ。
今どき文学史を〈読み換え〉ようとしている研究者は他に山本芳明が思い浮かぶ程度だけど(ボクが不勉強なせいか)、松本氏はあの若さでヤッチマッタのだから驚くしかない。
この調子で10年代末期から戦後へ、また昭和初年代へと遡って成果を上げてもらいたい。
安藤本同様にジャンルが小説(とそれに関わる批評)に限られる不満は残るが、小説偏重は日本文学全体が抱える問題点なので課題として自覚しておいて欲しいとは思う。
松本氏は詩歌はともかく演劇には詳しいのだから、その点では期待できると思っている。

今日は(といっても一昨日書き始めたもの)贈呈してもらっている種々の研究誌を紹介しようと思ってブログを開いたしだい。
松本書について想定外に書きすぎてしまったので、簡略に記して済ませて機会を改めたい。
『繍』は早稲田大学の院生たちの研究誌で毎号充実しているので(少なくても量的には)、バックナンバーを含めてこれから読んでいくのが楽しみな雑誌。
もちろん玉石混交なのは「質より量」の結果で已むをえないけれど、今度の第27号(2015年)には珍しく小林秀雄に関する論が載っていて嬉しかった。
小平朝子さんの「編集者としての小林秀雄――「文學界」・創元選書・「創元」を中心に――」という珍しいアプローチの論なのだが、表層(現象)を撫でた程度にとどまっていて考察(分析)が欠けている稚いレベルのもの。
拙著『小林秀雄への試み 〈関係〉の飢えをめぐって』でも『文學界』中心に自分なりの考察を示した者からすれば、「日本人の留学生」(学芸大院で私用(使用)していた皮肉語)が何とか論としてまとめた程度のものなので、今後に期待したい。
引き合いに出すのも失礼なほどだけれど、松本氏の著書を見本にして資料の読み方と分析する手際を学んでもらえれば変身する可能性は開けると信ずる。

他の研究誌については別の機会に記したい。