贈っていただいている研究誌について、謝意と共に感想を記したいとは以前から考えていたけれど、根が昭和文学研究だけに松本書について書き始めたらそちらの方に惹かれて書きたい・伝えたいことが湧いてきたのでもう少し。
松本氏が引用したり紹介したりしている著書や論文も最近注目している五味渕典嗣氏を始めとして水準の高いものばかりで、そちらにも手を伸ばしているとワクワクするほど楽しいので松本書は手許に具えて・読んで欲しいものである。
しばらく遠ざかっていた小林秀雄を含めて「備蓄」してあるさまざまな文献を引っくり返す機会にもなり、そこからまた松本書に戻ると面白さ倍増だ。
本書から教えられたことは多々ある中で、一番驚き反省したのはルポルタージュ文学の位置づけの重さである。
戦後の一時期に安部公房・花田清輝・杉浦明平等によって模索されたことは知識として持っていたけれど、「そんなものは文学じゃねェ」くらいの反応しかできなかったものだ。
大方の受け止め方もそんなものだったせいで、その後はルポルタージュ文学言説は軽視から無視に移っていったのだと思っていた。
それが本書によれば「報告文学」として括られるものは昭和10年代に外地(芥川賞を立て続けて受賞した作品でご存じのとおり)から戦場(火野葦平その他)へと移っていくというのが本線だとすれば、広義化されて行き何と花街小説もその括りに入れられたという説も紹介されている。
説をなしたのは嶋田直哉氏で『立教大学 日本文学』第八十九号(2002、12)に掲載されている「『報告文学』の季節――永井荷風『ぼく東奇譚』の受容から」という論文だ(「ぼく」の字を打ち込んでも化けてしまう)。
これがまたハチャメチャに面白い!(毎号贈ってもらっているのに読めなかったのは残念至極ながら、在職中はなかなかそんなヒマが無かったというのが実情。)
嶋田氏によれば同時代評には「ぼく東奇譚」を「報告文学」として捉える見方があったというのだから驚く。
詳細は嶋田論を読んでもらいたいが、そんな観点は初めて聞くもので「ぼく東奇譚」を取り上げた近代文学会秋季大会のシンポジウム(1992年、発表は島村輝・高桑法子・中島国彦)でも聞かなかった。
嶋田氏は松本氏とは親しい仲らしく、偶然居合わせた酒席で二人が「ニーベルングの指輪」を4日間通して聴いたと話していたのを耳にして羨ましく(妬ましく)思ったことがある。
趣味だけでなくお2人は研究面でも演劇など共有する問題意識があり、引用する歴史論文でも明示されているものはお約束の成田龍一の著書・論文を始めとして、細かいところでは2人とも権錫永の同じ論文を引いている点でも明らかだろう。
嶋田氏に対してはその酒席だったかで「論文を書け」と脅迫したような記憶もあるが、想定外の実力者だったので立教には人が集まるものらしいと感じた。
石崎等氏の指導の宜しきを得た成果なのかもしれないが、そう言えば石崎さんも従軍作家その他に関わって中国大陸に対する関心が高かったことが想起される。
嶋田氏は論文末尾で「ぼく東奇譚」の「報告文学」的側面を見落としてきた従来の研究を〈「文学」主義的な欲望〉に囚われている、と批判している。
ルポルタージュ文学論議に見向きもしなかった者として、氏の批判を正面から受け止めながら改めて昭和文学を見直してみたい。
同時代評や様々な文献が紹介されている松本氏の大著が、この上ない参考書となるはずである。
小さいながら不満を1つ2つ。
第21章は坂口安吾「真珠」が取り上げられているのは歓迎ながら、松本氏に限らず多くの論が書かれながら誰もガランドウの存在を読みに取り込もうとしていないのが不可解で受け入れ難い。
歴史的文脈など作品の背景を探るのも結構ながら、大きな風呂敷からは洩れがちなテクストの細部が読みから排除されがちになるのは見逃せない。
以前記したが、「苦界浄土」について学会発表した佐藤泉氏が、作品に現れる老婆の言葉が分からないと放置したまま大枠だけ論じたのも同様だ。
日頃から「テクストの細部を立ち上げろ」と言い続けている「文学主義者」としては、読めないものは排除すればいいとする傾向には賛同できない。
もう1つは雑誌類の表記についてだが、これも松本氏に限らず発表年月のみならず巻・号まで併記する傾向が不可解。
刊行が途絶えがちな雑誌ならともかく、順当に出ている雑誌なら年月だけで十分伝わるのだから巻号のように余計な情報はジャマ臭くて不要だと感じている。
巻号など記すなら西暦と元号を併記してくれた方が遥かに効果的、反元号イデオロギーに囚われている雑誌があるのは不便で仕方ない。
ボクは「文学主義者」かもしれないが、反西暦主義者ではないので悪しからず!
@ これは松本氏は該当しないものの、ついでながら不満というより警告を1つ。
最近時々目にする引用中の省略記号として(・・・)というのが流行りつつあるようだが、絶対に止めてもらいたい。
相変わらず欧米のマネゴトのようだけれど、戯曲など会話においては「・・・」「(・・・)」が原文の場合もあるので省略記号と混乱する元となる。
西暦のみならず「欧米追随」主義者からすると漢字表記はダサイと感じるのかもしれないが、(略)や(中略)と表記してもらいたい。