ナスシシスト? 批評?

時々本を探したり整理したりしているけれど、昨日は自分の論が載っている『国語と国文学』(平24・4)を発見してドキッとした。
依頼されたので、授業で展開していた持論を太宰に即してまとめたものだということは思い出せた。
しかし忘れていたのはボケのせいか、「太宰文学の特質」という表題で蘇ってくるものがあったけれど、読み始めたらドキドキするほど心配した(のも後で考えるとオモシロイ)。
アホなことを書いてやしないか、という心配だけど、読み進めていくとワクワクしてきた、面白くて。
昔から読みたいものがなくなると自分の論を読んだりすることがあったけれど、偶然見出した拙論を読んで感心したこと例は少ない。
どっちにしてもナルシシスト? ということになりそうだけれど、記しておきたいのは感心ではなく変心(?)の問題。
松本和也の素晴らしい研究書を読んでいたためもあるかもしれないけれど、自分の論の傾向があまりに異なっているのに驚いた。
松本論のように厖大な資料を読み込んだ上で論を展開するのではなく、作品テクストを様々な切り口から分析するという求心的な志向性で書ききっていたからだ。
数年前から津久井秀一氏から「最近書くものは批評的ですネ」と言われてきたが、このことかと思い及んだしだい。
遡れば最初の著書である小林秀雄論の帯に饗庭孝男氏から推薦文を書いていただいた一文にも、研究であり批評でもあるというようなお言葉があって我が意を得た思いだった。
もちろん意識して批評を書こうなどとは毛ほども思わないけれど、文体を含めてこれが自分のスタイルであり研究だと考えているのでこのまま進むしかない。
新しい世代の優れものを読むことを通して、己の特色に気づかされたという話でした。