秋山虔先生

亡くなられるといっそう先生とのことが思い出されるのだけど、そういうものなのだろうか。
結婚して間もない頃、院の後輩のネギシから聞いた話。
ボクが結婚したことを電車内で秋山先生に話したら、「私は呼ばれなかったので知らなかった。」とおっしゃったそうだ。
ネギシが「三好先生も招待されなかったそうですから。」と事実をお話ししたら納得なさった、というようなことだった。
ボクは定時制高校に就職する際に、校長面接で「合格している大学院を辞めてもいいからここで務めさせてくれ」と告げたら、校長・教頭が揃って「通学しながらでも来てくれ」と言われてカンゲキして7年務め続けたものだ。
定時制高校教員の質的低下をカヴァーするため、都内では少なからぬ現役院生を雇ったという事情は後で知った。
定年もなく、確かに口には言えないほどお粗末な状況で、何より生徒が可哀想だった。
もちろん熱意のある先生方もおられたので一緒に頑張れたわけだけれど、あまりにヒドイ教員3名に対しては遠慮なく告発・批判したのは全共闘魂だったか。
それはともあれ結婚した時の意識はあくまでも教員だったので、結婚式には三好師も呼ばなかったらその後呑んだ時に三好師からお褒めに与った。
宇都宮大学への就職は三好師から電話が来て、秋山先生に連絡しろということだった。
秋山先生に電話したら教育学部だということだったので、自分には専門外だから無理だと応えたら文学だけ教えればいいようだから、というのでお引き受けしたしだい。
国語教育の授業はいっさいやらずに近代文学だけ担当していれば済んだので勤まったもの。
秋山先生のお弟子さんの奥田勲先生(中世文学)がいらっしゃって、就職の話はその人脈のお蔭だったと後で知ったけど、書類選考の際にボクの駒場(教養部)の成績があまりにヒドイので奥田さんが不安をもらしていた、ということは教員の野球チームの監督から暴いてもらって知った(ボクは1番センターでユニフォームはまだあり、背番号は西鉄ライオンズの稲尾の24)。
全共闘運動以前から越智治雄先生の授業以外には失望して、語学や体育のように出席をとられるものしか出なかったし、ストライキ解除後(全共闘運動終息後)も同様で教養単位(フツー2年間で全部取る)全部を取るまで7年間費やした。
教養部に4年もいたわりには教養が無い、とはよく言われたものだ。
秋山先生の話だった。
院の演習授業で紫式部日記を教えていただいたことは記したが、作中の若殿(枕草子じゃないから伊周じゃないので頼通かな?)が何やら誦しながらカッコよく退場する場面を、先生が式部の作家の才と魂を読み取られた発言をなされたのでビックリしたのを覚えている。
古典文学の鑑賞においても現代の感覚を持ち込んでいいのか、と驚いたものだ。
小説家になるという野心を三好師は早々と諦めたとは聞かされたが、「秋山さんはけっこう長く作家志向を持っていたようだ」と付された時は授業の際の鑑賞を思い合せて納得できた。
文学的センスの無い研究者に対する先生(たち)の厳しいお言葉を思い出しながら、先生を偲んでいる。