漱石論  山崎正和  「それから」  『シドク』  関谷由美子『〈磁場〉の漱石』

朝日新聞が信頼を失った穴埋めを図るように漱石を担ぎ出している印象を持っているが、「こころ」「それから」「門」を当時の連載を復元して載せているのもその一つ。
その他にも「没後百年」という記事を時々載せていて、正月1日には山崎正和が語っている(聞き手である記者のまとめ)。
山崎正和といえば劇作も面白いが、何と言っても「鴎外 闘う家長」(新潮文庫もあるはず)がスゴイのでおススメ。
ちょうど大学院で三好行雄師の演習で鴎外をやっていた時で、鴎外は生涯で3回大きな決断をしているという捉え方は斬新で実に面白かった。
師もこれを評価していたけれど、山崎の次著「不機嫌の時代」はまるで説得力に欠けていて残念だった。
「そもそも上機嫌の時代なんかあるもんか!」という院後輩だった林広親の言葉が笑えて忘れない。
「不機嫌な時代」には漱石の「それから」や「明暗」等が取り上げられて、日露戦後の知識人が抱え込んだアンニュイを「不機嫌」と言い換えたもので、志賀直哉荷風の作品も括られているが牽強すぎて無理がある。
今回の記事にも《戦争が終わって明確な目的が失われ、アイデンティティ危機の時代でした。(略)つまり、プレモダン(前近代)の人間としてモダン(近代)を受け入れたが、モダンをうまく同化できず、かえってその先のポストモダンをのぞいたのが漱石だった。》という記述があるが、これも言い過ぎで無理を感じる。
山崎氏も御年(おんとし)80歳を超えて思い付きを垂れ流すようにまでボケてしまったのかもしれないものの、今とり上げたいのは漱石の小説の共通性として《女性に迫っていく生命力に欠き、自分ひとりでは女性を愛することができない男たちが描かれる》という箇所である。
「こころ」の先生を上げるのは漱石研究ブームを領導した越智治雄師の読みと同じで説得力があるが、「それから」について《代助は、三千代を愛するのに、平岡への嫉妬をバネにする》という理解は如何なものか。
この把握は平岡夫人となった三千代を口説く代助のことを言うのであろうが、代助の三千代に対する感情は決して「嫉妬」などではあるまい。
「嫉妬」と言うなら4年前に三千代を平岡に譲った後の感情であろうし、それは4年間続いたわけでもない。
私見を付せば(拙著『シドク 漱石から太宰まで』)「三四郎」において広田先生サロンで話題になった《Pitty's akin to love.》(可哀想だた[ということは]惚れたちゅうことよ)が次作の「それから」に引き継がれ、代助の三千代に対する思いの変化として描かれているのだ。
流産したり夫の平岡が仕事で失敗して東京に戻らざるをえなかった窮状に対する同情が、しだいに愛情と錯覚されていくというのが代助の一人芝居である「それから」という物語なので。
というわけで山崎論は誤読と言わざるをえず、したがって次作「門」でも《御米が安井の妻でなかったら、あれほど積極的になったか疑問です》というのも山崎の記憶違いで、宗助が安井と知り合った時は御米は妻ではなく縁者として紹介されていたのであるし、詳細は語られないものの平岡から三千代を奪った後の代助と三千代の結び付きを受け継いでいるのが宗助夫婦のはずである。
山崎が「行人」の一郎も《ひとりでは女性を愛することができない男》に括っているが、詳しい補足が無いので意味するところが不明のまま。
一郎は「ひとりでは女性を」どころか、男女を問わず他者を愛することが絶対的にできない存在として語られているのではなかろうか?
漱石研究ブームが去って久しいが、桐原書店の教科書がらみで久しぶりにかじり読みしたら、改めて〈人称〉に焦点を当てながら読み返したくなったものだ。
と言いながらも、関谷由美子氏(同姓ながら縁戚関係無し)の『〈磁場〉の漱石』(翰林書房)を未だ拝読できずにいて、したがってキチンとした礼状が書けずにいる、申し訳ありませぬ!