芥川賞  松波太郎  ピース又吉

読んでない(たぶん当分読まない)ので発言は避けていたけれど、釣り部の夜の呑み部でボッキマン太郎(松波クン)がまた芥川賞の候補に上がったという情報を得たので、又吉直樹芥川賞やるなら松波太郎に授賞(受賞じゃない)するのが当然だろうと明言しておきたい。
選考委員を代表して山田瑛美が授賞説明の時に素人だったか通俗だったか、その種の言葉で下駄を履かせた授賞だったとチョッと苦しげな言い回しをしていたのを思い出す。
忘年会で信頼する大学の先輩が「火花」は全然ダメだと言ってたので「やはりそうか」と思ったが、これも信用できる読み手である定時制高校教員時代の仲間(後で学大書道科卒だと分かった)が年賀状に芥川賞の2人はヒドイと書いてあったので「やっぱり」と確信できた。
又吉に便乗してテレビで八シャイでいるもう1人のレベルは全く不明ながら、「火花」が想像したとおり賞に値しないものでありながらメディア主導で選考委員も乗ったものと判断できた。
異常としか思えない売れ行きは、いかに日本人特有の同調圧力を考慮に入れようが、手練(だ)れたメディアの仕業無しには考えにくい。
文芸作品が売れる契機になれば良しとするメディアが(溺れる者は)ワラをつかんだということだろうが、「火花」が売れても文学に有効と言えるほど単純なことではない。
「火花」が文学の名に値するか? という大事な問題が残るからだ。
それなら十分「文学」の名に値する作品で芥川賞を逃し続けている松波太郎クンに授賞すべきだ、と憤っているのは私だけではあるまい。
ピース又吉よりもボッキマン太郎の方がマタ良シだから。
もちろんマタは股に付いているモノではなく小説についての評価だ。
今「火花」を読むとガッカリするより怒りが吹き上げてきそう。
(芸人としての又吉はデビュー当時からとても好きだけれど、彼は太宰ファンに止まっていて太宰の文学を正当に理解しているとも思われない。
個人的には優れた作品とも思われない「人間失格」を100回は読んだそうだけれど、又吉が読むのは物語内容だけに思えるので、それでは太宰文学の肝心なところが理解できてないファンでしかない。)
ボッキマンよ、自分を信じて書き続けろ!
(たまにはゼミ部か呑み部に顔を出せヨ! 釣り部にはすばる文学賞のカネシローも来てるヨ。)