見田宗介(真木悠介)

朝日新聞」連載記事なので興味があれば図書館か公民館あたりで読んでもらいたい。
見田宗介と言えば日本を代表する社会学者というイメージだろうが、その人が「人生の贈りもの わたしの半生」という10回連載のインタビュー記事で話している。
1937年生まれだから、こうした回想が記事になるトシなんだナ。
今まで明かさなかった事情も語っているようで(ボクが知らなかっただけか?)、とても面白い回がある。
ちなみにボクが学部生だった時は助手で授業を持っていなかったと記憶するので、直接には知らない先生だ。
記事の前に記しておくと、専門から離れたエッセイを書く時のペンネームである真木悠介ちくま文庫『気流の鳴る音』から教材案を提出し、国語教科書始発時の桐原書店に載りそうになったことがある。
編集委員会では掲載決定したのだけれど、編集部(出版社)が文部省(文科省)の意向を過敏に先取りしたために、具体的にはガンジス河で死体を焼いて流す場面が教科書向きでないという理由で差し替えたということだ。
文才もある人で、とても好いエッセイだと思っているので今でも残念至極、皆さん勝手に読んで下さい。
さて見田さんを全く知らない人のために注しておくと、大澤真幸の師匠と言った方が身近に感じるだろう。
大澤も何かで2人の関係を記していた気もするけど、とてもイイ関係のように見える。
少なくとも四方田犬彦が殴られたことを小説(?)で明かした由良君美(きみよし・スゴイ英文学者)先生ほど扱いにくい人ではなかったということ。
中沢新一駒場(東大教養学部)の助手にエントリーした時に積極的に反対した理由は不明だけれど(大澤を呼びたかったのかな? 当時の大澤は年齢的には若過ぎたような気がするが)、当時は西部邁(すすむ)が中沢を助手にすることに反対した学内勢力(見田さんの名は出してなかった)に抗議して、中沢と一緒にテレビで怒りをぶちまけていたのを覚えている。
一番面白いのは第5回(22日)の記事で、《僕自身は60年安保の世代ですが、10年後の全共闘の問いの方がはるかに刺激的で、深いと思った。》とあるところ。
全共闘シンパ」ではないという立場だったと明言しつつ、《彼らの問題提起には深く共感するが結論には反対》して徹夜で激論したと語っている。
「非常に誠実な学生たち」の例として故・小坂修平(一時期キタローとテレビにも出ていた哲学専門の評論家)の名を上げて懐かしんでいるけれど、小坂はボクがクラスを離れて活動していた時のグループの理論家だった。
全共闘運動か三島由紀夫に詳しい人なら知っていると思うけど、両者が駒場で「伝説的な対決」をした時に主催した小グループなのだけれど、その頃のボクはバイト先の栃木貨物で従業員の吉野クンと相撲を取ってケガをしたため、帰郷中だったので残念ながら立ち会ってない。
見田宗介の名で賢治論も出していて、ボクも持っているけれどまだ読む余裕ができていない。
ともあれ読むに価する人だから、何でもいいから読んでハマって欲しい。
弟子の大澤の文章(あんなに哲学好きとは思わなかった)ほど読みにくくはないから大丈夫。