大国真希『太宰治  調律された文学』の書評

マギーが太宰論の2冊目を翰林書房(2800円)から出してもらったということで、発売中(?)の『図書新聞』に書評を頼まれて書いたものを以下に貼り付けます。
まだ発売中かもしれないけど、どうせ買う人はいないだろうからイイよね。
2年ほど前(?)だったかに木村陽子の安部公房論の書評を書いた新聞だけど、大きな本屋でないと置いてないし。


きゃりーぱみゅぱみゅという歌手を見かけるたびに誰かに似てると感じ始めてだいぶ経ってから、「ああ大國だ!」と思い付き落ち着いたことがあった。本人に告げたら「そんなことありませんヨ」という意味の反応が返ってきたのは覚えているが、具体的な言葉は思い出せない。「あんなに可愛くありませんヨ」ならそのとおりだろうが、ぱみゅぱみゅの母親と言っても通るとは思っている。いきなり何を? と思われるだろうが、還暦を過ぎた人間にはぱみゅぱみゅが分からないように、大國真希の書くものも理解不能の域に遠のいていく感じが強まっている。東京学芸大の博士論文を出版してもらった時の表題が『虹と水平線 太宰文学における透資図法と色彩』(おうふう)だったが、その時点でも美術好きな私でさえ理解に困難を覚えながらも、指導する立場もあって無理が利いたというのが実情だった。今度の著書に至っては副題が「調律された音楽」と付されているのだから、いかにクラシック音楽狂の私でも腰が引けるばかりである。文学(太宰)を音楽として読むなどという冒険に付き合わされるのは、このトシになると願い下げにしてもらいたいというのがホンネである。それでもきゃりーぱみゅぱみゅが20世紀を超え・日本を越えて受け入れられているように、大國真希の論も若い世代の研究者や読者には読まれ評価されているのだから、「大國真希はまさに21世紀の研究者だ」というコピーを先に提示しておきたい。
 大國氏が太宰論を発表し始めた頃には既に松本和也が活躍していたので、「これからの太宰論は松本和也と大國真希が担っていく」と感じてその旨の発言もしていたが、その後の展開はこれに齋藤理生を加えて三者が支えているように見える。松本氏には近著『昭和10年代の文学場を考える 新人・太宰治・戦争文学』(立教大学出版会)という著書の副題のとおり文学史的視野を保持したわけであるが、大國氏は美術から音楽へと転換しながらも芸術というジャンル内に自己限定しつつ、他分野の芸術との接点で太宰テクストを分析し続け、それによって己を他から屹立させて際立っている。
そもそも副題は少々異なっていたとはいえ、博士論文の表題を「虹と地平線」として堂々と提出したのだから20世紀の発想ではなかった。詩的なイメージは表題に止まらずに本文にも放恣なまでに現れ、それは本書にも受け継がれているのだから、大國論文は文学研究の域までも超えてエッセイとして読まれる可能性も秘めている。そのオシャレな感覚と文章はダサイ治も超えている、と受容する読者がいても不思議ではない。小説よりも詩歌の分析に向いている手法と文体と言ってもよかろう。主指導教員だった山田有策氏や私のような前世紀の遺物を置き去りにしつつ、文学研究に新しい読者を誘い込んでくれそうな予感と期待に満ちた著書に違いない。
 大國氏が私(たち)を置き去りにした一目瞭然の典型は「二十世紀旗手」論であろうが、これは残念ながら前著に収録されているのでそちらを味読していただくしかない。そもそも太宰のテクスト(本文)そのものが私には解読不可能な21世紀モノだったので、論文執筆依頼を大國氏に代ってもらって助けられたというイワク付きの論である。「二十世紀旗手」を始めとする前著も同様であったが、本書に収録された論が「秋風記」「I can speak」「薄明」「雪の夜の話」「断崖の錯覚」といったあまり読まれることのない作品が並んでいることも大國論の特色である。愚作が少ないという意味で打率の高い太宰作品の中でも、(私には)面白くもないマイナーな作品を掘り起こしてテクストの味わい方を教えてくれる。
 大國論のもう一つの特色は太宰テクストに「聖書」の痕跡を読み取るところである。私が最初に衝撃を受けたのは、これも前著の「桜桃」論で作品末尾の《蔓を糸でつないで、首にかけると、桜桃は、珊瑚の首飾のやうに見えるだらう。》の一文からティツィアーノの絵画「さくらんぼの聖母」のイメージを重ねられた時である。ティツィアーノの他の著名な作品なら観た覚えがあるものの、「さくらんぼの聖母」など聞いたこともない。論の続きはグリューネヴァルトの有名な「イーゼンハイムの祭壇画」にまで及び、そこには確かに幼な子が珊瑚のロザリオをもて遊んでいるので、なるほどそういうことだったのかと納得できたものだ。論には太宰が知人とこの絵について語り合ったという証言も(注)として付されていて完璧である。大國氏のポエジーまがいの研究論文が、単なる連想ゲームではないことは本書を読めば十分解るはずである。
 大國氏から置き去りにされた私ではあるが、私が鍛えた痕跡は本書にも明らかである点だけは自負できる。それは「テクストの細部を立ち上げろ」という訓えであり、先行論が見過ごしてきた芸術やキリスト教に関わる細部に注目し、太宰テクストの新しい読みへと誘い入れてくれている。脱帽である。