研究方法  理論  フッサール

昨日の相談でも話題になったのだけれど、「自分は理論勉強していないから〈読み〉よりも実証的な研究の方が向いていると他の先生からも言われたし、自身でもそう思っている。」ということだ。
確かに〈読み〉ができないヒトも(研究者も)いないわけではないので、イザとなればただただ時間的余裕に任せて資料を漁りまくってまとめる、という「最後の手段」もありうるだろう。
でも職場で人一倍忙しい職場で種々の難問を抱えているヒトにはそんな余裕は無いだろうから無理でしょ、と応えておいた。
まんざら読めないヒトでもないと思ったので、(『シドク』の序文にも記した)テクストで自分がツマヅイた箇所を自分なりに解いて行きながら全体の〈読み〉に展開する、といういつもの助言を伝えた次第。
理論、理論と言うけれど、理論を理解するにもその能力が必要だし、1つの理論が身に付いたとしてもそればかりに頼って論じていると当然「バカの1つ覚え」で単調な結果しか出てこない。
テクストを〈読む〉力が無いのに理論に頼って書けば、結果は見るに(読むに)耐えないパッチ・ワークになってしまうのも已むをえない。
蓮実重彦が登場して理論が流行った頃、「溺れる者はワラをもつかむ」勢いで理論が求められたことがあり、『読むための理論』(石原千秋・木俣知史・小森陽一・島村輝・高橋修高橋世織著)という怪しい本が売れたものだ。
シッカリした研究者だと思っていた木俣氏までが、ルー小森の著書に対する書評で(『日本文学』だったか)《ここに(何でも読める)普遍的方法が確立されている》という意味のことを書いていて呆れたことがあった。
共著者なので気を使って「持ち上げ」たのかもしれないけれど、木俣氏にとっては黒歴史(汚点)として残るはずだ。

「言葉」のコーナーとして鷲田清一さんが紹介しているフッサールを引こうしながら前置きが長くなったが、木俣氏のこのアホな発想を真っ向から否定する鋭い言葉として銘記してもらいたい。
 《真の方法は、探究されるべき物事の性質に従う。》(朝日新聞「折々のことば」2月28日)
鷲田さんがこの言葉をパラフレーズし(言い換え)て次のように記している。
 《あらゆる対象を均しく分析できるような一つの方法は存在しない。物事の真相を捉えるにはそれにふさわしい方法、文体、もしくは表現のスタイルがある。》
「普遍的な方法」などがあるはずは無い、目の前にある作品に応じて最良の方法を選択しなければならない、それが難しい。
万能な方法をつかんだだと思って溺死するオバカたちを、これ以上見たくないものだ。