高橋源一郎の論壇時評  暴力団も憲法で守られるべきか?

小説作品にはほとんど興味が無いし、学界でも話題になった日本文学史を素材にした作品も出だしだけ読んですぐに投げ出したのを覚えているが、彼の政治的主張には基本的に同意できるので朝日新聞の「論壇時評」は毎回楽しんでいる。
今までに違和感を抱いたのは3年ほど前だったか、北朝鮮に対して寛容過ぎるかなと思ったことがあったくらいかな。
だいたい弱者の立場で考えていれば間違わないという点では源一郎と同じ発想だと思っているけれど、ボクは民衆を抑圧している北朝鮮のキム王朝は倒されるべきだと考えているので、源一郎が同情的な物言いをしていた時は賛同できないと感じたものだ。
昨日(2月25日)の記事も久しぶりに違和感を抱いた点があった。
「ヤクザと憲法」というドキュメンタリー映画を取り上げて、暴力団(高橋はヤクザと記しているが、ヤクザは多少とも美化されたイメージが伴うので暴力団と記す)の組員が種々の「人権侵害」を会長に訴えている例を挙げながら(子供が幼稚園に通うのを拒否された・銀行口座を開けなかった等)、暴力団組員だからといって差別していいのか? と問題提起をしている(のだと思う)。
ボクの結論は簡単で、暴力団は弱者ではなく弱者をイタブル強者だから彼らの側に付く必要は全く無いということ。
それが嫌なら反社会的な暴力団組織から抜ければ済むハナシだ。
最近話題の清原が(以前覚せい剤で逮捕された酒井法子も)刺青までしたように、今どきになってもヤクザに憧れてしまうのはキヨがアホだからだけれど(薬漬けになったのを、今さらキヨを裏切って巨人入りした桑田のせいにはできない)、美化されたヤクザのイメージはまだ残っているのが現状だ。
ファック君(同級生の女子学生の命名)が兵庫県で教職に就いたので喜んでいたら、板書していると背中にナイフが飛んできそうな学校で、暴力団に操られる判断力が皆無のアホな生徒のためにサンザンな目に遭って3年(2年?)で辞めざるをえなかったのは可哀想だった。
そのファック君がギュー(牛)と呼んでいた後輩女子が長野の小学校で指導していたら、暴力団の娘がモンペ(モンスター・ペアレンツ)で校長・教頭を脅かしたものだから、怯えた校長・教頭はモンペの言いなりになってギューの方に注意を与えてきたので涙が止まらなかったという例もある(ボクがそれを知ったのは事件が起きてから数年後だった)。
世間にはキレイゴトだけ言っていても片付かない問題があるのは否定できないから、ヤクザ的存在(ご存じ清水の次郎長の美談のイメージ=幕末の勤王佐幕の闘いによる死者を片付けたとか)は根こそぎ社会から消滅させるべきだとは言えないものの、1つを許容するとすぐに100まで膨れ上がるから危険極まるので基本的には許すべきではないと思う。
暴力団が守られる前に、もっと守られなければならない弱者は世にあふれている。