つかこうへい「熱海殺人事件」  生成論

レポのクリマン君が健闘してくれたお蔭で充実した議論ができたが、楽しい脱線話でも盛り上がったのは現代戯曲のせいだったか、とにかく面白かった。
初出・初刊版の冒頭のト書きに注目した発表は斬新な読みではあったけれど、無理な感じが否めなかったから循環構造という把握もダメだろう。
久しぶりに読み返したら思いのほかに面白く、中でも取調室の《外側》を提示する台詞に興味をそそられたら、レポもシッカリそこに注目していたので議論ができて良かった。
アタサツは実にたくさんのヴァージョンがあって、新しいほどツマラナクなる感じだけれど、個人的にはレジュメの生成論的観点というのに引っ掛かった。
昔から完成型を前提にそれまでのヴァージョンを位置付ける発想に慣れていたので、池内輝雄さんの記念碑的志賀直哉論における習作を読む試みに違和感を覚え、それを書評に記したことまであった。
テクストには審級があるという考え方をしていたためで、習作それ自体を独立して論じるのは無駄だという判断を出した書評だった。
とはいえ、つかが最後のヴァージョンを「定本」と銘打っているのにも強く違和感を覚えるので、生成論の問題に困惑と困難を感じている。
音楽でも大好きなブルックナー交響曲には原典版以外にもハース版その他があり、その中から演奏の際に指揮者が選んでいるのは言語芸術に似ている。
しかし美術となると、完成画をレントゲンにかけると塗りつぶされた画像が現れることがあるけれど、それでは別ヴァージョンとは呼べない。
美術の場合のヴァージョンは(例は少ないものの)同じものを複数描いた時に生じるのだろう。
美術番組を見ていたら、シャルダンだったかが売った絵と同じ絵を自分用に描いて所有していると知って驚いたけれど、これも生成論にはなりにくそう。
有名どころではミレーの「種をまく人」やゴッホのひまわりのような場合が生成論として議論されるのかナ・・・
美術の場合は審級がより相対的な感じがするけど、どうかな?
もっとも審級を考えること自体が、今の生成論とは馴染まないようなのだけれど。
ビックリしたのは金太郎の印象的な台詞、「海が見たいと言ったのさ〜」のサ音の脚韻の踏み方が当時流行した歌曲「蜂のムサシは死んだのさ〜」に重なっている、というマチダさんの指摘。
もう1つの歌詞のような台詞が本田路津子(済んだソプラノがイイ!)の「耳をすましてごらん」というフレーズや、その他の当時の演歌を切り取っているという指摘。
言われてみて初めて気付いたので驚いたものだけれど、レポがこれらの「詩的言語」(「詞」的言語と言う方が相応しい)に注目して読みに取り込もうとしていたのは面白かった。
とにかくつかこうへいの作品論など思いも及ばなかったので、クリマン君の幅の広さに感謝!
参加者からの数日後のメールに「戯曲を議論するのは初めてだったので面食らったけれど、とても勉強になった」という意味の言葉もあったので、感謝しているのはボクだけじゃないのは確か。
クリマン君に限らず、また戯曲を取り上げてもらいたいものだ。
退職後の読書の楽しみの1つに、自家にある十数冊の『現代戯曲全集』や三好十郎全集や別役実戯曲集などがあるので、ぜひやってもらいたい。
もちろん三島や安部公房でも嬉しいけれどネ。