松本和也『昭和10年代の文学場を考える』  やまなし文学賞  高橋修

マイナーな賞なので一般には知られていないけれど、近代文学研究書も対象に入っている珍しい賞なので狭い世界ながら話題となる。
絶賛・推奨してきた松本氏の大著が授賞を逃したやまなし文学賞は、高橋修『明治の翻訳ディスクール』と川平敏文徒然草の十七世紀』に決まったとのこと。
一部の選考委員の恣意・独断が目立った昔はともあれ、安藤宏高田知波といった最近の受賞作を思えば松本氏かと思っていたけれど予想(期待)が外れてしまった。
でも古典の方はとにかくも、(日曜に桐原の会議で会って呑んだばかりの)兵藤裕己の選評を読むと高橋氏の著書も十分賞に値するように伝わってきた。
高橋修というと、ひところはルー小森の「金魚のウンコ」として片付けられていたようであるが(片思いなのに恋々として、というマコトシヤカな尾ひれまで耳にしたこともあったが)、受賞の言葉や兵藤評を読むとルーさんの出まかせ放言とはレベルを異にする、真っ当な研究を持続した成果のようである。
明治文学については無知無能な身ながらも、第一部(3部構成)の「〈人称〉の翻訳」には強い関心を抱かされるのは、『現代文学』掲載論文で衝撃を受けた中山真彦さん経由の問題意識があるからだと思う。
「ロビンソンクルーソー」の翻訳をめぐる興味深い問題については、昔、明治文学専門の後輩から教えてもらったことがある。
原作は三人称小説ではあるが、当時の日本では三人称の語り方を受け入れる素地ができてなかったので、クルーソーを直接知る者を設定した上でその人間が一人称で語る形で翻訳したという説明を聞いた時に、「大鏡」を始めとする日本古典の歴史物語等の一人称語りを想起しながら、カルチャーショックに似た動揺を感じたのを覚えている。
この問題の研究史には無知ながらも、高橋氏がどのように論じているのか知りたいものだ、とホンキで思っている。
小出版社ながらガンバッテ継続しているひつじ書房出版の本が受賞した、というもの喜ばしい。
それにしてもひつじ書房で出している中村三春さんの本は、まだ受賞していないのは何故だろう?
これが?と思われるヒドイ今までの受賞作に比べるまでもなく、レベルの高い本を出しているのにナ・・・