自分の中の「舛添の卑しさ」をチェックしよう!

それほどまでに騒ぐか? とも感じてしまう舛添「痴事」については4月29日のブログに書いたので、そのまま繰り返しても芸がない。
1つだけ付け加えておけば、「舛添の卑しさ」は誰にもあることであり、それを自覚していないといずれ自分も「舛添痴事」になってしまうということ。
「文春」の記者が代表しているような、(週刊誌記者特有の)他人の私生活を覗き見る嫉妬やねたみの「卑しさ」を言うのではなく、公私の区分が付かなくなってしまう「卑しさ」の方がモンダイだろう。
例えば舛添が毎年正月に家族旅行のために公金(税金)を私用していながらトボケていられた面の皮の厚さには及ばなくても、似たようなセコイことを自分がやってないか、今後やらないと言い切れるかとなると、絶対に「痴事」にならないと言えるのか?
もちろん(チンケな猪瀬と足並みを揃えて)舛添のごときケチなヤツを弁護する気は毛頭ないけれど、自分の中の「舛添の卑しさ」を絶えずチェックしていないと舛添を非難する権利を失うことになるので、舛添のバカさ加減を嘲笑して終わるのではなく、他人(ひと)のフリ見て我が身を直す機会にすべきだろう。
なんだかツマラナイことを記してしまったようだけれど、調子に乗り過ぎると何をやらかすか分からないニンゲンのことだから、自分も卒業生の仲間たちのことも心配してしまうので書いておくのも意味あるだろう。
前に書いたとおり、朝鮮侵略までやった秀吉ほどのスケールではないものの、舛添「痴事」も増大し過ぎた自己像をチェックすることができずに調子に乗り過ぎ、大失敗したということだろう。
1農民という出自ながら関白まで上り詰めた秀吉が、肥大し過ぎた地位に自己を合わせることができなかったように、(秀吉同様に出自が卑しいのかは不明ながら)舛添も都知事(テレビのコメンテイターによれば現代の「殿様」に相当するとのこと)という立場に合わせる自己を持ち合わせていなかったということかな。

「世界の蜷川」のことを書くための前振りとして、同じく今話題の舛添に触れておこうと思いながら長くなってしまった。
蜷川のことも以前書いたからいいかな。