LGBT再び  マツコ・デラックス  松村クリス  ルー大柴  田嶋陽子

日ハムが大逆転した試合を見ていたら時間切れで放送が途絶えてしまったので(西武の田辺監督が岸投手を交代させなかった理由が全く分からない)、そのまま録画中の放送大学南北アメリカ史にチャンネルを変えたら、続いて昔見たLGBTの番組の再放送となったので聞いているところ。
番組の制作年は不明ながら「セクシャル・マイノリティとしての幸せな暮らし」という表題で、最初見た時は放送大学でこんな番組を作るのかと感心しながら教えられたけれど、今やLGBTは広く共有されつつある概念であり、その上で拒否から容認に向かっている人間の在り方だ。
番組では同性愛であることが親にバレて分籍されたり、悩んだ果てに自殺したりした例が紹介されているが、渋谷区役所が同性婚を認めたのを始めとして、最近では様変わりしつつあるのは歓迎すべき傾向だ。
それにしても該当する人が想像を超えて多いようなので、驚きながら正直うろたえてもいる。
朝日の「ことばの広場」というコラム(6月22日)によれば、LGBTにも収まらない「アセクシャル」(同性も異性も好きにならない)や「Xジェンダー」(自分を男女どちらとも思わない)等もいるというのだから、ワケが分からなくなって脳が「NO!」と言い出している。
セクシャリティは「自然」ではないと読んだことがあるけれど、だとすると時代や社会によってセクシャリティが作られたり選ばれたりするのかな?
DNA自体が時代や社会に左右されるものなのかな? 分からンなぁ〜、誰か教えてくれないかな〜。
ローマや江戸時代のように爛熟期に同性愛が盛んになったとすると、人口増加を抑えるDNAが働いたのだろうか?
現代は日本のみならず人口爆発状態だから、ヘテロ異性愛)が抑えられているのかな?
でなければいつの時代にもヘテロ以外の性の在り方は多様で多数なのであって、たまたま抑圧されていただけだったのかな? 分からん!
原因は不明でもともかく現象として想定以上に広まっているのだから、そのつもりで対人関係に気を配っていなければならないのは確かだろう。
無知・無自覚な教員が率先してLGBTの生徒たちを差別・排除する言動を犯してしまう事例も多数発生しているようで(朝日新聞5月13日「教育」欄)、教科書にLGBTの記述を求める運動も展開されつつあるというのも当然であろう、急ぐべし!!!

それにしても「その手」の人達のメディアへの露出ぶりは異常としか思えないのだけれど、・・・マツコデラックスにしても松村クリスにしても、番組の制作側でも視聴者の側にも上からの差別的目線でオモシロがっているだけのように見えるのはボクだけなのかな?
逆差別だと感じているのだけれど。
松村は今日昼時のニュース番組にまでシャシャリ出ていたので、条件反射的にチャンネルを回してしまったし、やたらと多くなったマツコのコマーシャルが現れるとすぐに画面から目をそらせながら「消音」にするくらいの拒否反応ぶり。
少なくともこの2人に対する嫌悪感は、田嶋陽子ルー大柴に対する厭悪感と変らないと自覚しているので、マツコや松村がLGBTでなくても死ぬまで「見ざる聞かざる」を貫きたいと思っている次第。
ビートたけしが毎朝自分の小便を飲む健康法を勧められながらも断った時に、「オレの美意識が許さねエ!」と言い切ったのと同様で、この4人の言動はボクの美意識が拒絶するだけなのだけれど。