松波太郎「ホモサピエンスの瞬間」書評  『図書新聞』

我等のボッキマン、こと松波太郎の3度目の芥川賞候補作(即ち落選作)となった「ホモホモセブン」、ではなく「ホモサピエンスの瞬間」の書評を『図書新聞』3259号に載せたのでここに公表します。
6月18日付けに公刊されたものだから、もうホトボリも冷めたと判断したから皆さんに読んでもらっても良かろう。
ただし公刊されたものは完成稿であり、以下に掲げるのは編集者の意向で第三・四段落がカットされる以前の初稿である。
筆者とボクの関係は伏せた方が良かろうというのでカッとしたのだけれど、これが無いと研究者が生ものを書評することを批判しながらも自分ではそれをやっている矛盾が露わで気になっていた。
編集者がブログでは明らかにしていいと言ってくれていたので、公刊後10日以上経った今だからもうイイだろう。
ボッキマンを知っている一部の仲間には既に送ったのだけれど、返信のほとんどが作品を読んでみたいと言ってくれているので、(イチローの)書評の力を信じることができた。
さらに原稿では、蓮実重彦氏が書評のみならず小説まで書くという破廉恥ぶりをさらしているとからかっていたら、直後に彼の第三作が三島由紀夫賞を受賞したので苦笑が止まらなかった次第。
その後の蓮實氏の恥の上塗りぶりは、実は出版社の意向に沿って受賞作が売るためのパフォーマンスだったということを知ったけれど、彼の言をそのまま信じていいのか? という疑念は抑えきれないでいる。
ボッキマンの作品は行きがかり上(先般ブログでいきものがかりと記してしまったけれど、いきものがかりが正しいと皆さんから指摘された)読んでいるし書評もするけれど、蓮實さんの小説という生もの(キワモノ)などには全く興味も無いので読んで批判するということもできない。
残り少ない時間は無駄にできないという気持にウソは無いし、(学生時代に大河内や加藤とかいう歴代の総長を批判した経歴を持つ身としては)東大の総長まで引き受けてしまった蓮實さんの言動にはウサン臭さを感じ続けていたというのが本音。


 研究者である私が出たばかりの本について語るという資格などない、研究は生ものを扱わないというのは基本中の基本であり、対象との間に十分な距離を持てた時に研究が始まるからである。とはいえ松波氏の文学界賞受賞作品「廃車」も文芸批評家ズラしたがる研究者の餌食となったと聞いているが、目立たないメディアで批評家ズラをして見せる程度なら笑って許せば済むだろう。
しかし『朝日新聞』という開かれたメディアで文芸時評をやらかしては、大恥をかくばかりだと証明したのが蓮實重彦であり、小森陽一であった。今どきの生ものは現場の小説家しか分析・評価ができない、と実感させたのが島田雅彦だった。現在の担当が音楽批評で鳴らした片山杜秀なのだから『朝日』もずいぶん投げやりになったものだと思っていたら、まんざら文学に縁の無い人でもないらしい。その証拠に(?)「ホモサピエンスの瞬間」を雑誌発表の時点で取り上げているセンスを具えていたのは嬉しい限り。もっとも、生ものだけに読みがズレてしまうのは致し方ない。片山氏は「孤島の日本と大陸の中国との関係」を中心に読み取っているが、それほど社会的・政治的な拡がりを持った話ではなく、二人の登場人物の内的世界に凝縮していく話だと私は読んだ。
現代の文学状況がまるで理解できていない身ながらも、松波氏の近著の書評を引き受けたのは、氏が一橋大学大学院在学中に私の受講者だったからである。単なる読者に止まっていたかったものの、氏の本の売れ行き改善のためなら一肌だけなら脱ぐ気持の整理ができたからである。「芸は売っても身は売らぬ」心づもりで芸を見せようという次第。
私の芸といってはテクストの緻密な分析であり、狭い業界ながら至芸に達しているという自負はある。私の芸の達成の高さは松波氏も知るところであり、氏が授業で発表した檀一雄「火宅」論を私の読みが軽く超えてみせたことは、氏のトラウマになって文学研究の道を閉ざしてしまったのは遺憾である(『解釈と鑑賞』〈昭○・○〉の拙稿参照)。とはいえ氏が研究という真っ当な道を逸れてヤクザな作家稼業で成功を収めたのだから、その点だけでは感謝されても良かろう。氏は一橋大大学院に進学する前に中国の大学を中退した経歴の持ち主であるが、氏の小説に例えば徐福の話が出てきたりするのは氏の向学心と関心の方向を明かしている。「ホモサピエンス」の素材に東洋医学が選ばれているのも、別段不思議ではない。
三度目の芥川賞候補となった「ホモサピエンスの瞬間」は、一度目の候補作「よもぎ学園高等学校蹴球部」や二度目の候補作「LIFE」等の分かりやすい作品とはうって変わり、少々難解な書き方なのでハードルが高くなっている。前二作とは異なり時間と空間が単純ではなく、語りの複雑さが作品世界に厚みを醸し出している。それが最近の松波作品に見られる工夫であり、新味となっている。作家としての腕が上がり、もはや及びがたい存在という印象である。松波氏から難しい「ホモサピエンスの瞬間」というテクスト(本文)を与えられ、解読してみろと江戸(「火宅」論)のカタキを取られている感じを抜け切れない。
 日中戦争時に肩こりのあまり少女を殺してしまった男が、老人となった現在でも罪意識を引きずり続けていて、身体のこわばりとして現象している。それを揉みほぐす半世紀年下の鍼灸師が、思わず洩らした肩こりという言葉が老人を惑乱させ、世代差を越えて両者のシンクロして行く過程が語られている(五十歳の年齢差と老人の姓が五十山田(いかいだ)なのもシンクロの一つ?)。約せばそれだけのことなのだけれど、その語り方が絶妙なので感銘を受けるのだ。
 テクストは様々な相において〈二重性〉が構築されている。冒頭で身体がいきなり東洋医学の観点から語られているので戸惑うが、頭部が東部に重ねられながら、身体の問題と日中戦争の時空間におけるある戦局とが〈二重化〉されていく。その手順として冒頭の語りにやがて意味不明の発話が挟まれてくるのだが、読み進めていくとそれが戦争に駆り出されていた頃の老人が置かれた状況と発話を、鍼灸師が「空想」によって肉付けしながら再現していることが判明する。「橋」と「首」のように、老人が投入された戦線と現在の老人の身体の内部が巧妙に〈二重化〉されて語られる手際は、紙幅が許さないので読者それぞれが味読してもらうしかない。
 文学テクストは何よりも表現の細部を読み取る愉しみを得られる点で貴重であるが、「ホモサピエンスの瞬間」は〈二重性〉を核にして豊かな細部に満ちたテクストである。今回の芥川賞を受賞したのが本谷有希子(ともう一人)ということだから妥当な結果と思われるが、「選評」で本作に対するコメントを読むと、選考委員それぞれの読解力のレベルが判然とするので面白い。イエスを裁いた者たちが歴史に裁かれているように、選考した者は選考したことで自身が委員として相応しいか、まさに裁かれるのだ。
 最年長の宮本輝はそろそろ引き際であることをさらけ出して無惨である。松波作品は「わからない」を連発しているだけで、理解できない苛立ちをぶつけているのは山田詠美も同じ。文才だけで書いてきた(それ自体はスゴイ)山田は、知的な試みであった本作をお好みの漫画と同列にしながら(それ自体は間違ってない)、理解不能だと頭ごなしに否定している点では宮本レベル。否定肯定はともあれ、理解できているのは小川洋子奥泉光島田雅彦川上弘美堀江敏幸といったところか。
 個人的にもっとも共感できたのは小川洋子の評で、《他人の体に触れつつ、計らずも相手の心の声と交流してしまう》という捉え方であるが、次の作品につながる等とお座なりの言い方で濁すのは如何なものか! 小川が読み取ったテーマは本作で十分表現されているのであり、難点といえば「交流」があまりに簡単に運び過ぎていて、作品世界における葛藤・緊張の形象化が不十分なことであろう。体内においても戦線においても、「橋」を挟んで対峙しているそれなりの緊張は伝わってくるものの、それがつい少女に発砲してしまうほどの切実さとしてまでは語りえていない。だから語り手が「空想」で呼び出す殺された少女の影も薄くなるのだ。
 もう一つ私の疑念を付しておけば、殺人という行為によってホモサピエンスまで堕する瞬間までの物語として落とし込んでいるけれど、テーマは小川説だと受け止めたので作品の表題も落としどころもズレていると考えるが如何?