向田邦子「字のない葉書」  作家の父親像  石原千秋 

ナオさんが法事で欠席のため、お約束の手作りケーキが食べられなかったけれど、代わりに伊豆在住の元昭和ゼミ長・土屋佳彦クンから送られた夏成りの甘いミカンを参加者と味わうことができた。
じつは10日ほど前に送られたのだけれど、冷蔵庫に保存しておいたら全く味が変わらないままの状態で食べてもらうことができた。
毎月第4日曜に小倉百人1首ゼミを続けている嶋中道則さんにも会え、ミカンも食べてもらうことができたのは嬉しい。

さて「字のない葉書」論だけど、レポのオピッツ君が論文化を目差しているようなので、あまり詳しいことは言えないけれど議論は伝えられるだろう。
レポが授業でやっているうちに、指導書や先行研究に疑問を抱き、自分なりの読みを構築しようというのがモチーフとのこと。
簡略にいうと、「父」中心の読みを覆(くつがえ)すために、下の妹の心情を推察しようとしたのが新味。
「字」は書けなくても心情は読めるといって例示していたけれど、テクスト(本文)に明示されていないものを強引に推察するのだから反論が出るのは当然。
もう1つは語り手の「私」の操作を重視することで、先行論・指導書の「優しい父の愛情」という読み方を批判するというモチーフ。
「優しい父の愛情」という理解に対しては賛否の強い意見が飛び交ったのはテクストが招いた必然。
ビックリしたのは最後の「父」涙まで、ずっと「父」は「演じる人」だというK君の読み、ホンキかい? と思ってしまった。

これは当然あると思っていたけれど、授業の現場では(特に中学では)語り手(の操作)という考え方は生徒に伝わりにくいので指導書では使われていないとのこと。
でも授業という観点を捨てて、文学テクストの読みとしては「私」の重視は当然あり得るし、「私」の観点を抜きにはあまり面白い読みは出てこないだろう。
先行研究には「主人公」という捉え方があるようだけれど、レポは主人公を「父」に限定することに反対したいらしい。
主人公を決めるのは読者に違いないながらも、テクストをどうヒネッても下の妹を主人公にはできないだろうけど、「父」ではなく「私」を中心化して読むのはありだろう。
レポは「字」を葉書の裏表で考えて、宛名を記している「父」と「字のない」妹の裏書に父批判が読めるという論を考えている模様。
それなら「字」の所有をめぐる非対称な関係を前景化しつつ、字を持たない妹の葉書と字を獲得した「私」の手紙をこそ対照して(このテクスト自体が前後2つの部分が対照的な構造)意味づけたらどうだろうか?
ヒッキー先生から、学大の近代文学分野から初めて向田邦子のシナリオ分析をした卒論が提出されたと聞き、それも水準が高かったと聞いて興味を抱いた(国語教育分野では前例があるだろうけど)。
その卒論でも重松清の「父親」像との対照が論じられていたというのだから、重松清も読んでみようかと思わせたからでもある。
娘の父親像と息子のそれとは当然大きな違いがあるだろうけど、面白いテーマだよネ。
息子側からは志賀直哉を始め永井荷風高村光太郎などたくさんあるけれど、娘の父像は鴎外の娘たち(森茉莉小堀杏奴(アンヌ))がすぐ浮かぶ。
作家ではないながら漱石の2人の息子の父親像は「理解しがたい暴君」のイメージだけれど、鴎外の娘たちのそれはほぼ「優しい父の愛情」で「字のない葉書」に通じる。
姉の森茉莉のエッセイには、「字のない葉書」の「私」に通じる父を相対化する視点があるので、賛美一辺倒のアンヌとは一線を劃している。
鴎外の「愛情」には「演じる」感じが伴ってうそ寒さが伝わってくるけれど、「字のない葉書」の父の過剰な「愛情」の現れ(末尾の場面)には、テクストに強調されているふだん「テレ」で抑えられている愛情表現の噴出が感じられる。
小説は下手だけれど、萩原葉子「父・萩原朔太郎」はダラシナイ人間としての朔太郎像が見事に描かれていておススメ。

ずいぶん前に話題になった石原千秋『国語教科書の思想』にもこの作品が取り上げられていることを、レジュメの引用で知った(作品名は無いので聞き間違えたかな)。
文学テクストをキチンと読む能力を具えた研究者が誰でもできそうな方面に首を突っ込んでいる印象で、全くスルーしていた本だけれど、引用を見るかぎり想定内でツマラナかった。
イデオロギーに還元して問題提起する手付きは、学部入学した頃からアホっぽい全学連系の活動家等から耳タコの感じで聞き飽きているので、まるで興味が無い。
身近にいた学生がいつの間にか特定のイデオロギーに取りつかれ、内ゲバで殺人を犯して指名手配されるに至ったというのは、オウム真理教を先取りしていて気味が悪かった。
石原本もよくある国語教育分野のツマラナさなのか、それとも重篤な文学主義者であるボクの自己閉塞による理解不能なのか? このトシでは関心が狭まるばかりだけど。
一昨年だったかセンター試験小林秀雄の文章から出題されたら、石原方式の問題の解き方が全く役に立たなかったので、石原千秋の評価がガタ落ちしたと聞いてどういうことか分からなかったけれど、その手の本も書いているのかな?(センター試験問題は在職中からずっと読んでないけど。)
何にでも当てはまる問題の解き方など有るはずがないのにネ、何でも読めるテクスト分析法が無いのと同様だナ。
早稲田の〈教育学部〉に就職したための方向替えなのかもしれないけれど、惜しいヒトを(文学研究から)失くした(亡くしたではない)感は否めない。

昨日のゼミ後から、何だか眠気が取れない。
夕方2時間近く寝たのだけれど、脳がサッパリしない。
眠い気もするので寝てみようかな・・・