佐藤公一はオソマツ!  彩流社(高梨治)の無知

「読む」欄だけれど、読まないように注意を喚起する記事。
引退した身ながら少なからぬ著書を贈っていただくことが多く、感謝に堪えないことは記したばかり。
それでも頂戴しながらも、稀に「有難迷惑」と言うほかない著書もあるのも確か。
その第一が佐藤公一氏の著書で、読んでも時間の無駄で何も得られないのでタメ息が洩れるだけ。
主に小林秀雄論なのだけれど、世間では敬遠されがちな小林に興味を持っているのは心強いものの、だくさん出している小林本の中身がどれもヒド過ぎるのだ。
頂戴しても一目見ただけで、小林関係の雑本(紙クズ同然なのは佐藤本だけではない)の置き場に蔵うか、最近のように真っ当な小林研究者である津久井秀一氏に上げてしまう(迷惑かな?)。
今まで佐藤氏の小林論をスルーしていたのに今回敢えて記したのは、先日落掌した近著『小林秀雄真珠湾攻撃妄想 《オタク》と戦争』(彩流社)の「あとがき」にボクの名前を悪用されたからだ。
《前著『小林秀雄のリアル』には、貴重な御感想や指導的ご批判をたくさんいただき、たいへん有難かった。中でも、関谷一郎氏には示唆に富んだ御指導をいただいたことに厚く御礼を申し上げなければならない。氏のご批判が本書の動機付けともなっている。》とヌケヌケと記されていたので、腰が抜けるほど驚いた。
ボクの「ご批判」が今度の本を書いた契機になったとすれば、ボクが新たな紙クズを生じさせた責任の一端を担わなければならないことになり、地球や人類のために申し訳が立たない。
不愉快千万な気持をブログに記しつつ、佐藤氏本人にも抗議しようとしていた矢先、小林秀雄研究史に名を成す有能な研究者から《何か「御指導」したのかい?》と冷やかされてしまった。
小林が理解できていれば、佐藤氏の論がハチャメチャだというのはすぐ分かるからだ。
もう1人の小林研究の担い手である細谷博氏の著書(昨年刊行だったか)には佐藤氏の著書についての書評が収録されているが、そこでも一切肯定的な評価はなされていない(ボクなら書評自体引き受けない、全否定することになるから)。
ともあれ佐藤氏の小林論はお粗末過ぎるのだけれど、その原因は何よりも佐藤氏には(小林のみならず)文学テクスト(本文)を読む能力が欠落しているからだ。
文学研究においてアマチュアを超えるレベルではないので、小林研究に利するものはほぼゼロと言っていい。
大学は教育学部卒だそうながら研究についてあまりにも無知なので、前著の礼状にその点を付したと記憶している。
具体的には樫原修や森本淳生氏のような優れた小林論をシッカリ勉強するように勧めた次第である。
その「御指導」は生かされていて両先生の著書を読んだ形跡はあるものの(細谷氏や関谷の著書も)、これらも十分に理解できていないまま引用しながら絶賛して終っている。
先行研究の優れた指摘を引用して済ますのなら、論にもならないし本を書く意味も無い。
我々研究者は批判されながら新しい読みに出会うことを望んでいるので、そういう論でなければ研究として意味が無い。
面白ければそれで済む(終る)批評と異なり、研究は積み重ねが可能であり先につながるものでなければならないからだ。
そういった観点から佐藤本を見ると、先行研究に付け加え得たものが見当たらないので紙クズと言うほかないわけだ。
他に「御指導」が生かされている点を上げておけば、初出テクストに気を配るようになっていることで、ボクの最初の論文「小林秀雄・その転位の様相」も初出テクストからヒントを得られたのがきっかけになっている。
今回の佐藤本には初出テクスト(中村光夫テクストについても)への言及が数カ所見られているのは進歩ではあり、論としての発展にはつながっていないものの佐藤氏自身のためにはなっているのは確か。

著書の表題「真珠湾攻撃妄想 《オタク》と戦争」だけでも誤読や誤解に満ちた本であることは察せられるだろうが、小林秀雄論でも読む価値のある山崎行太郎氏の著書を出している彩流社が、佐藤氏のトンデモ本をくり返し出版しているのが不可解。
実は彩流社の中でもトビキリ優れた本を出している近藤裕子女史に、1ケ月ほど前だったか佐藤公一の小林論=紙クズも出しているので近藤氏の本の価値も疑われるから、編集部に抗議した方がイイと助言したばかりのところに佐藤氏の2冊目が送られてきてしまった。
彩流社もカネを積ませてトンデモ本でも出して行かないと経営が成り立たないのでは、という研究者の受け止め方もあった。
とにかく佐藤氏の近著は、出版社(担当の高梨治)の《無知》と筆者の《無恥》の合作というほかない。
老来、貴重な時間を無駄にしたくはなかったけれど、自分の名前を悪用されたので弁明させてもらった。
名前の悪用と言えば、佐藤氏は度々あとがきにルーさん(小森陽一)の名を騙(かた)っていたと記憶する(今回はボクの敬愛する東郷克美氏の名も使われている)。
佐藤氏は大学院が北大だそうだから、そこでルーさんと知り合ったのかどうか知らないけれど、己れの名前だけでは売れる自信が無いからといってそう度々他人の名を騙っていいものなのか?
特に小林秀雄論の「あとがき」で《小森さんに言われた、「民主主義は大事だよ」という言葉が身にしみる今日である。》などと記されても何ノコッチャ! と笑うしかない。
ルーさんも《無恥》の典型なので佐藤氏に通じるのであろうが、ルーさんは小林に関しては《無知》そのものだろうから、小林の話題を避けて「民主主義」の話をした思い出話をした相手として名前を利用したということなのか?

佐藤氏は文学研究においてだけでなく、クラシック音楽においても《無知》のようで佐藤禎という友人に助言を仰いだ、と「あとがき」にある。
クラシック・ファンのボクとしては、文学研究の論に文脈を無視してむやみに音楽(に関する言葉)を《無恥》に引用されるのも不愉快千万なので慎んでもらいたい(研究論文に他ジャンルの比喩を用いるのも初歩的な過ち)、とも付しておきたい。
《むしろ、ジョン・ケージのプリペアード・ピアノによる演奏のように、《非=芸術的な騒音》に満ちて、奇形である。》→何を言ってるのか、自分で分かってるのかな? 佐藤禎氏に叱らるヨ。
小林秀雄の批評文「実朝」は、〈ヴァイオリン協奏曲〉である。弾き振りである。ヴァイオリンのソロのパート譜は、実朝の和歌である。それに大管弦楽吾妻鏡』が奏鳴する。》→小林の下手なマネのつもりなのかもしれないけれど、あまりにヒドイ比喩で吐き気がするばかり。