ボブ・ディランのノーベル賞

さきほど日ハムが勝てる試合を継投で失敗して(というよりソフトバンクのマーティンの弱点研究の成果と言うべきだろう)負けたのを見ていたら、なんとノーベル賞がディランに授与されたというテロップが流れて腰が抜けた。
ディランについては10日のブログでチョッと触れたけど、まさかノーベル賞とは!? それならハルキに上げろ(くれ)ヨ、とすぐ思ったくらい。
日本人のほとんどがそう思ったと察せられるけど、よく考えればイイ選択だと受け止められた。
今見ていたテレビのニュースによれば、候補の2か3位にハルキともう1人がいてディランは4位だったという。
そんな情報もあらかじめ知らされていればボクも(日本のディラン・ファンも)気持の準備ができていたけれど、手ぶらで受賞を知らされるとビックリするしかない。
よく考えれば、というのはディランは60年代から欧米では詩人としても評価されていたということを考え合わせれば、受賞も当然と思えるからだ。
ディランについての知識は、全て学生時代からの友人・カワカムリ君からのものだけれど、『ユリイカ』という雑誌のも特集されたことがある(この雑誌は最近サトマンに上げたけど)。
湯川れいこというデブオバサンを始め、「風に吹かれて」を上げて受賞理由を説明しているけれど、それだとあまりに軽く受け止められてしまう危険がある。
あくまでも70年代までのファンとしての見解だけれど、ディランの代表作は「廃墟の街」という10分超の曲があり、それが日本のフォーク・ソングに多大な影響を与えたとされている。
吉田拓郎の「イメージの詩(うた)」がまさに「廃墟の街」を目差しながら、日本では頂点まで達した曲と評価されている(と思う)。
ボクが仲間うちでカラオケで歌う最初の曲が「イメージの詩」なのだけれど、「廃墟の街」と比べるとまだプロテスト・ソングに止まっていてディランの詩の水準とは隔たりが大きいのは明らか(比べてくれれば判る)。
日ハムの勝利を願いつつ呑んでいたので酔いが回って眠くなったから止めるけど、ディランは「風に吹かれて」だけの歌手・詩人じゃないのは分かってもらいたいので記した次第。
そうでないとディランの受賞は理解されないままだろうから。

以前、中島みゆきの作品は曲(メロディ)と切り離して言葉だけを読んで評価するのは難しいけど、三上寛は切り離せるので現代詩だと記したことがある。
ディランの作品はまさに切り離して鑑賞できるからスゴイ! ということ。