東京大空襲  前橋空襲による叔父の早逝

今日は板塀塗りに5時間ほどガンバッタため仕事(読書)にならないので、ネット新聞でドラフトの結果を確認したり(日ハムが堀投手を獲れたのは楽しみ)テレビを見ながらブログを記している。
BS朝日で東京大空襲をやっていたので、なんで今頃と思ったら3月の再放送だった。
見逃した番組だったので有り難かったけど、中でも東京大空襲記念館(?)に展示されている焼夷弾を、解説者がナパーム弾だとも言っていたのを聞いて己のウカツさを今頃になって気付いた。
ベトナムのジャングルに枯葉剤を撒(ま)いて奇形児を生ませたアメリカ軍は、ベトナム都市部にはナパーム弾を撒き散らして焼き尽くそうとした特殊爆弾だと記憶している。
焼夷弾といえば何より母や叔母からその恐ろしさを子供の頃に聞かされていたものだけれど、それこそがナパーム弾だと聞かされてアメリカに対する怒りが倍加される思いだった。
日本の木製の民家を燃やすためにアメリカ軍が開発した戦争犯罪爆弾なのだけれど、人間にも焼けたナパーム(柔らかいゴム状)がくっ付くと離れないので焼死させられた犠牲者も少なくなかったという。
記念館には瀬戸物や瓦が焼け溶けているのを展示しているが、広島の原爆記念館の展示物まで想起されてまた怒りが増した。
9・11の惨事の際に、日本全国への空襲や原爆投下を思い合せたり・南北ベトナムに対する空爆を想起していたので、他国を攻撃してばかりいたアメリカが被害者の立場を味わうにはイイ機会だと思っていたのは確か。
そもそも非戦闘員を攻撃すること自体が戦争犯罪なのだから、東京大空襲に怒りつつも日本軍の重慶空襲を忘れてはならないだろう。
とはいえ故郷の前橋に対する空襲で殺された叔父のことを思うと、やはりアメリカに対する恨みは消すことができないでいる。
退職時の卒業生との集いで、イチローの半生を語れという要望に応えて準備していた時に、仏壇の位牌の1つが終戦10日前の前橋空襲によって数え年15歳で殺された叔父のものだったことを改めて確認できたのは、有り難い発見だったし新たな自覚を持つことができて嬉しかった。
65歳の定年退職を契機に15歳の叔父の無念さを受け止めたのは遅きに失したものの、その時以来残されたジンセイを叔父の分まで生きようと思ったのはまんざらウソではない。
卒業生との集いは自分にとって一番ありがたいものとなった次第。