キムケン  井上ひさし  平田オリザ  演出と演奏

現在の近代文学研究を先導している1人・松本和也をキムケンの紹介したら、平田オリザについて発表するという。
ボクの演劇体験はつかこうへいの「熱海殺人事件」を紀伊国屋ホールで観てから追っかけ始め、つか事務所が解散されてからも三浦洋一平田満等がアングラ(ビルの地下室など)で個人的にやっていたのも観ていた。
その後は野田秀樹の遊民社の公演を追っていたけれど、東大駒場の寮食堂でやっていた頃が一番面白かったという印象、「走れメルス」とか「野獣降臨(のけものきたりて)」とか。
松本氏が好きでないという串田和美が主催していたオンシアター自由劇場が、六本木のビルの地下でやっていた齋藤憐の傑作「上海バンスキング」も観たヨ。
吉田日出子という演技力のある素晴らしい女優がいたけど、最近見ないのは何故?
しかしあの頃に比べると、今の六本木は成金(なりきん)のが作った別の街に見えるナ、ナリキンのことをセレブなどと間違い言葉で言ったりして。

ともあれ最初の後藤隆基(松本氏の立教院の後輩)が発表した井上ひさし「日の浦姫物語」は、幸い自家に初出誌の「すばる」があったので読めたのは嬉しかった。
なにせ井上の戯曲作品はたくさん自家にあるのに、昔テレビで放映されたのを観て感動した「国語元年」以外(小説も)は読むヒマが無かったので有り難い機会だった次第(「国語元年」を桐原の教科書に採録しようとしたけど実現できなかったのは残念)。
この作品なら比較的最近の蜷川幸雄演出の(テレビからの)録画もあったけれど、日本シリーズを優先したために十分に観ることはできなかった。
物語は極め付けの近親相姦がテーマなので驚いているうちに、アレヨコレヨの展開で目が回るばかり。
読んでいてもそれ程のオモシロさは感じなかったけれど、自家では観る余裕が無かったサワリの場面を後藤氏が見せてくれたので演劇(特に大竹しのぶの演戯)の楽しさが理解できて良かった。
自家で観ていて(大好きな)グレオリオ聖歌が使われているのに違和感を抱いたけれど、レジュメの参考資料を見たらトーマス・マンの「選ばれし人」ともども納得できた。
井上ひさしは想像以上に何でも勉強して吸収する人なのだ、と改めて敬意を表したくなった。
それにしても近親相姦のテーマには全く興味の無いので、それほど面白い作品とも思えないながらも、テクストの読み方には関心がそそられた。
後藤氏がどう読むのかと思いながら聞いていたものの、満足できる答が得られないままに終わってしまった。
発表の最後に「新劇とは?」というモチーフが根底にあるとのことだったので、それ自体は問題として面白いし貴重な考察だとは思うものの、テクストの読みを期待した身には不満なままで終わってしまった。
後藤氏はむやみと初歩的な近代演劇史を話していたので違和感を覚えたけれど、「分かりやすい発表を」という依頼を過剰に意識したためらしい。
後の松本氏の発表に対する鋭いツッコミの連続が証明したように、このキムケンという集まりのレベルは極めて高いので啓蒙的な講義は不要で時間の無駄だった。
つかこうへいや野田秀樹の演劇を追っていたせいか、平田オリザには全く興味が無かったしツマラナクてテレビでも見通すことができなかった作家だ。
松本氏が2作品の1部を会場で見せてくれたけれど、ほとんど全部眠っていたのは昼寝の時間だったせいでもなかろう(念のために自家で仮眠をとってから参加したのだし)。
前日のヒグラシゼミと日ハム応援の疲れが出たせいもあるだろうけど、やはり平田オリザがお歯に合わないからだろう(韓国を舞台にした作品だけは面白かったことを思い出した)。
近藤ハカセはお見通しで「眠っていたセキヤさん、何か言うことありますか?」と指名されてしまった。
それまでのハカセとその配下(参加者)が松本氏を追及する議論の鋭さとレベルの高さに圧倒されて理解できてないまま、オリザの作品は松本氏が言う足し算というより引き算ではないかという疑問をぶつけてみた次第。
松本氏が引き算ではなくて足し算あるいはかけ算だと説明してくれたけれど、半分納得しながら半分は不可解なままなので、オリザを読む機会があれば検討してみたい。
さながら演劇関係者のように分かっている近藤ハカセ達(後から山粼真紀子さんも加わって)から、次から次へと繰り出される鋭利なツッコミに真面目にキチンと応えていた松本氏は、さすがに頭のイイ人だと感心したものだ。
オリザ論を一冊にまとめたものがあるそうだけれど、時期尚早ではなかったのか? と感じられる中身の濃い議論を拝聴できて幸せだった。
感想を求められた時に言おうと思いながら忘れてしまったのでここで強調しておきたいのは、松本氏は演劇の専門家ではないのにあれほどレベルの高い発表と議論ができるということ。
氏の大著『昭和10年代の文学場を考える』を書評した際に、紙くず同然の評論・研究書が氾濫する中で《本書に出会った喜びは切に大きい》(『昭和文学研究』第72集)と記した通り、松本氏は小説だけではなく演劇論もできる稀有な研究者だということを強調しておきたい。
近藤ハカセもその域に達しているような印象を受けたけれど、現在の研究は小説ばかりに偏っていて詩歌を始めとする他ジャンルに発信できる人がほとんどいないのは残念至極。
身近な例で言えば、勝原晴希のように詩歌のみならず小説も明解に論じているけれど、安藤宏は小説一本槍なのが惜しまれる。
松本氏が演劇のみならず詩歌までカヴァーすれば(する能力はある)、守備範囲の広さでは空前の研究者となる可能性があるので期待している。

余談だけど、後藤氏の発表で「日の浦姫物語」を演出した蜷川幸雄は、原作者が物故していた本作のみならず常にテクストをいじらないのが特色だという指摘があって興味を覚えた。
最近のオペラなどでは演出が突出するばかりで評判が悪いけれど、中にはテクストまでいじる演出家までいるとのこと。
個人的な興味に引き寄せて言えば、音楽の演奏でテクスト(楽譜)に手を入れる演奏家がいるので、無知な身には何を聴かされているのか不安になることもある。
ヴァージョンの違いを言うのではない、例えばブルックナーでは原典版よりノヴァーク版の方が演奏される機会が多いとか。
ベートーベンの交響曲で2管編成を勝手に4管編成にして音を大きくしながら大ホールに適合させるなど、楽譜をいじる演奏のことを言うのだ。
確かに最近はホールが大きくなったので、原典の楽譜どおりだと物足りない音になりがちかもしれないけれど、指揮者の勝手次第で曲想が変るなら本来の曲とは? という疑問が付いて回ってしまう。
有名なフルトベングラーは自身が作曲もしたせいか、かなり楽譜に手を加えて演奏したと聞いているが、あの時代はそれがフツーだったのかもしれない。
しかし今は原典尊重主義の傾向だと思うので、演劇で言えば蜷川は「正統派」ということになろうか。
演奏と演出、「演」の字で縁つながりだけど、根底でも関連が強そうで面白い問題だ。
「私は(作曲家ではなく)演奏家で十分」という言葉を残した小林秀雄の言葉も、実に味わい深い。
アクロバティックな批評は、小林に言わせれば原典離れ(イチローが批判する恣読)した「批評ならぬ批評」ということになる。
「こころ」や「春琴抄」を恣読した論が流行った、悪しき時代が再現されないことを祈るのみ。