内田樹も土佐直樹を覚えている?

一昨日、土佐の急死記事を載せたけど、別の意図で内田樹のブログを見ていた知人から、その記事に「トサ坊」の記述があると知らされた。
「トサ坊」とは童顔だった土佐の通称だったから間違いない。
というよりあの場になぜ土佐がいたのかが不思議、土佐は留年せずに2年で駒場から本郷に進学したはずだから(でなければあれほどスムースに就職が決まらなかったろう)。
記されている他の仲間は留年して2年下の内田たちのクラスに合流したのは間違いない(69年は東大入試が中止されたので2年したの学年に落とされた次第)。
留年して同じクラスになるわけでもないのに、下のクラスのオリエンテーションに参加するという付き合いの良さがまさに土佐直樹という男だった。

それにしても内田が40年も経ったのに、よくあの場面を再現できたと思う。
さすがに内田は、とも思わない、内田の取り柄は「東大生」ならフツーに持っている記憶力の良さなんかじゃないから。
やはりジンセイの大事な場面だったからでもあろうナ、ボクも入学時のオリの場面はけっこう記憶にあるから。
ボク等68年生は自称「ケジラミ集団」と言い、政治的党派ではなく駒場全共闘の1クラスに過ぎないのに、その動員力とゲバルト力では駒場社会主義青年同盟と1・2を争っていたと自負していた(ボクだけかな?)。
拠点だった第8本館が民青(共産党支持グループ)に責められた時に、建物から出た所で数倍の民青のゲバルト部隊と渡り合って8本を守ったのはケジラミ集団だったのはウソじゃない。
熱狂の時代に「遅れてきた」内田たち70年組は、中に秘めた強熱ではボク等に引けを取らない面々だったせいか(詳しくは下記の内田のブログ記事を参照)、ケジラミに対応して「水虫集団」と名乗っていた。
68〜70年にかけての思いは次から次へと湧き上がってくてキリがないので省略する。
わがジンセイで一番充実していた時代だった!(頭の中は浅田彰に言われるまでもなく、カラッポだったけど)

在職中、ブログで内田が全国的に話題になりつつあった頃だろうけど、顧問をしていた昭和ゼミの学生(国語科ではない)から「センセイの名前が内田樹のブログに出てましたヨ」と教えてもらったけれど、その頃は今以上にパソコンに不慣れでもあり多忙にかまけて見なかった。
「センセイのことをヘンな人だった、と書いてましたヨ」とか言ってたから、今回とは別の記事だったのだろう。
ともあれ、今度の記事は長いので「トサ坊」が出ているサワリの部分だけ引用すれば以下の通り。
その後に全文を貼り付けておいたので、ヒマを持て余しているヒトはどうぞ、といっても人物を知らないと面白くないでしょ。
内田は独創的な考え方では抜群と言えても、文章はあまり上手とは言えないと感じたナ。
いままで3回前後、内田について書いたことがあるので、ここでは繰り返さない。
記事から8年経っているけど、内田は土佐のことを覚えているかな、覚えてるナ、きっと。


本間長世さんという物静かな学究であった)からご入学おめでとうという簡単な挨拶をもらってから、上級生(68年入学で留年して同じクラスになった方々。カジイくんとかセキヤくんとかコンドウくんとかマーボーとかトサ坊とか)の全共闘のみなさんから「バトルフィールドにようこそ」的なご挨拶をいただいた。》



投稿者: uchida 日時: 2008年04月07日 13:15 | パーマリンク

2008.04.08


1970年4月駒場



大学の新学期が始まった。
入学式でマタイによる福音書を拝読する。
教務部長の任期もあと1年。式でこの仕事をするのもあと一回限りである。
なんでも私は「カウントダウン」するのが好きである。
どんな面倒な仕事でも、「これができるのもあと何回」と数えてみると、なんとなくそのディテールが愛おしくなってくるのである。
昨日は新入生オリエンテーション
総合文化学科の200人ほどの学生の前で簡単に自己紹介をして、それから9名の新入生とお手伝いに来てくれたゼミの4回生2人でいっしょにランチを食べる。
膝つき合わせて、志望理由や大学での計画についてあれこれとおしゃべりする。
しゃべっているうちに不意に40年前の大学入学の日のことを思い出した。
1970年だからもちろん入学式なんかない。
クラスごとにオリエンテーションがあっただけである。
時計台のある建物の一階のきたない、窓ガラスの割れた教室に集められて、担任の先生(というものがあったのである。そのとき一回会ったきりだったけれど。本間長世さんという物静かな学究であった)からご入学おめでとうという簡単な挨拶をもらってから、上級生(68年入学で留年して同じクラスになった方々。カジイくんとかセキヤくんとかコンドウくんとかマーボーとかトサ坊とか)の全共闘のみなさんから「バトルフィールドにようこそ」的なご挨拶をいただいた。
そのあと、たしか一人ずつ教壇に立って自己紹介をした。
久保山くんが眼を細めてクラスを睨め付けたのを覚えている。
「なめんなよ」というメッセージのようであった。
ハマダくんは、薄笑いを浮かべて登壇し、早口に何か言ってから急にまじめな表情になった。それからまた薄笑いを浮かべた。
どうも彼の脳内では外部よりも速く時間が流れているようであった。
ぼくが「日比谷中退の内田です」と自己紹介して、席の間を歩いて戻る途中で、痩せた背の高い男がにやにや笑って「お前が日比谷の内田か。噂は聞いてるぜ」と囁いた。
痩せた男伊藤くんとはそのあと友だちになったが、何の噂なんだったのか聞きそびれた。
黙って黒板に「筑波大学附属駒場高校」と書いた少年のことを覚えている。
一瞬、何のことだかよく意味がわからなかった。そんな学校はこの世にまだ存在していなかったからである。それが「キョーコマ」の諸君の怒りの表現であることにややあって気づいた。
おもしろい子だなと思って、そのあと話しかけて、友だちになった。高橋くんという人で、のちに美術史学者になった。
今もウオッカ・トニックを飲む度に高橋くんのことを思い出す。トニック・ウォーターというものをはじめて飲んだときに彼と一緒だったからである。
東北大学工学部を辞めて文IIIに来たというがりがりに痩せた爆発するような長髪の男はただちに「トンペイ」というあだ名を得た。
すぐれた宗教学者だったが夭逝した。
愛知でうどん屋をやっていたが、弟妹の学資援助が終わったので、自分も受験勉強をして大学に入ったという年長の穏和な男がいた。のちに東大の教授になった。
黒光りするような肌の少年がいて、「スミダガワ高校から来ました」と名乗った。隅田川で泳ぐとあんな色になるのかしらと思った。
そのナメカタくんは今もときどき神戸に来る。そのときは一緒にご飯を食べる。
40年間なんてあっという間である。
「不整合世界の住人」トンペイくんと熱血と侠気の人久保山裕司くんはもうずいぶん前に鬼籍に入った。
同級生たちもそろそろ定年の時期である。
その頃にもう一度会ってみたいような気がする。