昭和文学会  吉本隆明  瀬尾育生  三浦雅士  梶尾文武

吉本リュウメイを取り上げるというので期待して出掛けた。
会場の鶴見大学は院生の頃から敬愛する内田道雄先生(最近スゴイ読書量を示す感想録を送っていただいて安心したばかり)が、学大定年後に勤務していらっしゃった大学だけど行ったことがなかった。
地図を見ながら行ったのだけれど、大きなお寺だと思って通り過ぎたらそれが鶴見大学だった。
お蔭でチョッと遅れたけれど支障なし、最初の梶尾文武という人の発表はレジュメを掻い摘んで読んで行くものだったから。
とても良く勉強しているのはレジュメが示しているし、理解力も十分で正確だと思うのだけれど、学生の発表によくあるパターンで本人の考察がほとんど伝わって来ないので物足りなかった。
この感じはボクだけじゃなくて、近くにいた長上も同じ不満を洩らしていたから会場で共有されたものだったと思う。
シンポジウムになってもシッカリした意見を出せなかったことからもそれは明らかだった。

2番目森岡卓司さんの発表は幸い聴く甲斐のあるもので知的な刺激を受けていたら、そのうちにお約束の(昼寝は中学生からのルーティン)居眠りが出てしまい後半は熟睡して理解できぬまま終わってしまった。
シンポでも見かけ(筋肉スポーツ選手?)と違って切れ味のイイ発言をしていたので、眠っていたのが惜しまれた。
でも考え方を変えれば、眠ったお蔭で瀬尾育生さんの講演をジックリ聴くことができたと思えば、何事も100パーセントを望んではいけないということか。
ドイツ語は分からないけど、英語で言い換えてくれたguilt(人と人との関係から発する罪)とsin(人と超越者との関係から発する罪)との違いはスゴク刺激的だったし、後者からリュウメイの戦争責任論の独自さが生まれるという分析は衝撃的だった。
吉本リュウメイ思想の根幹を分析してみせてくれたこの辺りの話が聴けなかった人は、参加しなかったことを後悔すべきだろう。
この人はスゴイ! と感じさせてくれたけど、後半の実生活上の女性と詩句を短絡する発想には賛同できなかった(会場からも同様の意見が寄せられたのも当然だろう)。
どうも座談会における三浦雅士の意見に引きずられた短絡のようで、三浦は以前浅田彰が「あんたは編集者であって批評家じゃない」とバカにしたのを読んで賛同してから軽くみていたので、スゴイと思った瀬尾さんが三浦の実生活からの短絡読みを評価していたのは違和感が残った。
同世代の評論家でも加藤典洋と比べると読み応えが全然違ってツマラナイけど、リュウメイにあれほど打ち込んでいる三浦には敬意を表したい(でも何故三浦がリュウメイを?)。
この実生活上の婚約破棄の例として、瀬尾さんがキルケゴールカフカを上げたのはすぐ理解したけれど、ジッドも付け加えてのはピンとこなかった。
前の2人は哲学的・思想的な問題だろうけど、ジッドのは肉体的な要因(ホモ)だったから異なると思っていたから(瀬尾さんも違いを認めてはいたようだったけど、敢えて括って論じていた)。
高校卒業して間もない頃にキルケゴールの「反復」を岩波文庫で読んだ記憶があるけど、婚約破棄が問題だったらしいものの全く理解できてなかったようだ。
瀬戸さんの興味深い話を聴いていて矢田津瀬世子に対する坂口安吾が浮かんだけど、カフカキルケゴールの例に似ているかな? あまり実生活に触れた論は書きたくないけど。
瀬戸さんによれば婚約破棄は対幻想だけでなく共同幻想にも関与するとのことだったけれど、イマイチ納得できなかった(でも考え抜いている人の理解だとは伝わってきた)。
瀬尾さんからは沢山のことを教えてもらった講演だけど、若き日の吉増剛造リュウメイの厖大な詩集「日時計篇」の全篇をくり返し写したというエピソードには驚いた。
ゴウゾウの詩にそれほどリュウメイの詩風が影響しているとも思ったことが無いものだから(ただボクが無知なのか?)。
瀬尾さんご自身もゴウゾウほどではなくとも、リュウメイを読み込んだとのことだったけど、確かに「転位のための十篇」(これは分かりやすいので昔よく読んだ)の分析は刺激的だった。

シンポジウムの冒頭で安智史さんが吉本の四季派批判の言葉の粗さを逐一挙げて非難したけれど、栗原さんや瀬尾さんがチクリと刺した1針が効いて引き下げたのは気持良かった。
会場で隣りにいた大井田義彰さんに、吉本の「『四季』派の本質ーー三好達治を中心に」という論を勧めたばかりだったので、安クンの表層的な吉本批判に不快を覚えていたので溜飲を下げた感じだった。
口汚く批判する点だけでは、ボクは吉本に優るかもしれないからかな?
当りの柔らかい栗原さんが、言うべきことをズバリ言ってくれたのは頼もしく感じた。
  
ヒグラシゼミで学大赴任前のヒッキー先生(疋田雅昭氏)に「固有時との対話」について発表してもらったことがあるけれど、この難しい長詩を分かりやすく分析したもらって有り難かったものの、その時からの何故今どき吉本隆明なのか? という疑問は今回の学会でも分からなかった。
若い研究者の間にリュウメイ研究がブームになっているらしいけれど、何故なのだろう?
ボク等の学生時代は「擬制の終焉」や「共同幻想論」等が流行っていて、読まなくてもしらない者はいないくらいの勢いだったもので、ボクも『試行』の定期購読者を終刊まで続けていたほどだった。
ボクは毎号冒頭の「情況への発言」を読む程度で積んでおいたけれど、学部の同級生で院進学も同期だったNクンは吉本隆明支部と呼ばれるくらいリュウメイばかり読んでいたものだ。
ボクは著名な論は読んでけっこう感銘を覚えることもあったものの、元来浮気でのめり込めない性分のせいか無意識のうちにリュウメイとも距離をとっていたと思う。
吉本が唯一認めた「保守的」批評家である江藤淳の方がたくさん読んだ気がする、分かりやすいし吉本のように体系を目差さないからかな。
「世界を覆い尽くす言葉(理論)は無い」(イチロー語録)と当時から信じていたので、当時学生の必読書のように言われていたマルクスレーニンもあまり関心が無かったし、読みにくくてたまらなかったものだ(翻訳のせいだけじゃあるまい)。
そんな吉本リュウメイの特集なのに、今どきの若者がたくさん参加していたので嬉しいやら不思議やらで、ボクの授業を受講していたことのある赤星・滝上・吉田・仲井真、それと石川・竹田・構(この3人は会務委員?)といった面々の姿を見たり話したりでシアワセいっぱいだった。
閉会の辞で一柳さんが語っていたとおりで、忘れ去られたと思っていた桶谷秀昭村上一郎などという批評家の名前を聞くのも実に久しぶりだった。
村上一郎は読んだことないけど、桶谷さんの本なら5冊くらい自家に積んであるナと思った、それと磯田光一なら7・8冊ほどあるか、懐かしいもののこれ等はもう読まないだろうナ。
そう言えば梶尾さんの発表に取り上げられていた、磯田のリュウメイ論はヒッキー先生に上げたばかりだったナ。
先生に今度会ったら今日の疑問、なぜ今どき吉本かと尋ねてみよう。