転向?  真田一族・信行  吉本隆明  中野信子  「生き延びるのも正義」

昼寝しようと思って蒲団に入ってテレビのチャンネルを回したら、BSプレミアムで「ミステリーはここから始まった」の再放送をやっていた。
先週も(?)清張「点と線」をやっていたけれど、ルーさん(小森陽一)が出ていたので見るのを止めた。
正確に言えば作品を読んでないので、ミステリーの専門家たち(ルー以外)の面白そうな議論が理解できなかったからだろう。
今日は横溝の「八つ墓村」が取り上げられていた上に、ゲストに中野信子さんが出ていたけれど眠気にはかなわなかった。
我ながらよっぽどミステリーものが合わないようだ(とはいいながらヒグラシゼミでは今まで通り清張その他も取り上げます)。
今は恒例の(!)「英雄たちの選択」を見ながらだけど、信子さんが出ていて俄然集中できる。
話題も真田信行だから文句なく面白い(この番組が真田関係を取り上げるのはこれで4回目? 9時からは愛之助がバカ面させられている「解明! 歴史調査」でも信行がテーマだけれど「五木寛之の百寺巡礼」を優先する)。
弟の信繁(幸村)とは袂を別って徳川に付いた信行(妻が本多の出だから)の心中を(苦衷)推し量っての議論がとても面白いし、信行の家臣でも信繁の下に結集したのもいたというのも初耳だったかな。
関ヶ原に向かう家康の子・秀忠をたたきのめした父・昌幸と信繁は、信行のお蔭で生き延びたわけだけれど、経済的には呑むに事欠く生活を強いられたあげくに大阪城に立てこもったという経過がある。
大阪冬の陣でも信繁が徳川方を打ち破ったのはご存じのとおりだけど、MCの磯田道史さんの《有能な人を冷遇すると無事に済まない(危険だ、と言ったかな)》という発言はスゴク響いてきた、さすがの名言。
信子さんの《信行は生き延びることも正義なんだ、ということを示した》という言葉も悲哀がこもっていて沁みてきたナ。

ここで取り上げようとしたのは磯田さんや信子さんの言葉ではなく、先日の学会のテーマだった吉本隆明のものだったけれど、前置きが長くなったのは真田一族の感動的な境涯のせいか。
先日の流れでリュウメイが単独編集していた『試行』という雑誌を取り出してきて(学部3年目くらいから定期購読者になった)、小浜逸郎太宰治の場所」(3回連載)を再読し始めた。
小浜論連載第一回(1979・6)の第五二号には、吉本の「情況への発言」に生涯忘れそうもない「言葉」が載っている。
誤解のないように前段からも引用しておく(旧著作集にも収録されているはずなので、全文の通読をおススメします)。
《ほんとうに「幻滅」や「挫折」を深化したことがないために、血眼になって世界中から〈貧困〉や〈飢え〉や〈戦乱〉を探しまわって、同情の依り所をみつけては〈安堵〉と〈希望〉をつないでいるわが既成左翼や進歩派とは、(羽仁五郎のような口先だけの知識人はーー注)絶対的に同一なものである。》
《もしも挫折すべきことが、まだ世界に残っているのなら、わたしたちは挫折しなければならぬ。もはや鐚(びた)一文も挫折が残っていないと考えるならば黙々としてひとつひとつ創造しなければならぬ。》
引用しながら目頭が熱くなりそうな言葉であるのは、この言葉に出会ったのが全共闘運動が退潮してからしばらくは反安保でも等に参加していたけれど、そのくり返しに意味を見出せなくなっていた頃だった。
翌80年は大学院に籍を置きながら7年間の定時制高校の教員生活に入ったわけだから、リュウメイの言葉はちょうど学生運動を惰性的に継続することを止めて、教育と研究に生きようという考えが固まった頃だった。
政治家や革命家などになって「安堵や希望」をつなぐ気持はまるで無かったので、日教組の一員としてデモや集会には積極的に参加はしたものの、心は100パーセント教育と研究にあった(と言い切ってしまうとカッコイイけど、老親を養うためでもあった)。
《惰性的に左翼的運動を続けるには無意味であり有害でさえある、抵抗をやり尽くしたら「創造」に切り換えろ!》とリュウメイのメッセージを自分なりに理解した時には、足元がシッカリ固められた自信が湧いてきて落ち着けたのを覚えている。
全共闘運動の退潮期に自殺した知人学生がいたのを聞いていたけれど(学内外で敵対していた共産党支持の学生にも自殺者が出たと聞いた時は不思議だったけれど)、気持は理解できたものの視野があまりにも狭すぎると思ったものだ。
親の血ゆえに生来楽観的なお蔭もあったのか、信子さんが言うような「生き延びることも正義」だなどとはツユ考え付かないけど、「挫折」感に浸っているほどのロマンティストでもなかった。
リュウメイが言う「創造」は自分にとって教育と研究だと確信できたので、いわゆる「転向」などとは全然思わずに済んだのは幸いだった。
60年の安保闘争に身を投じたリュウメイが、ある時から政治運動から手を引いて独自の思想を「創造」している姿に心打たれながら著書を読んだのは当然の成り行きだった。
著名で感動的な「転向論」で、リュウメイが戦前の日本共産党員の一部が獄中で非転向を貫いたことを評価せず、むしろ大衆から切り離された知識人の自己完結にすぎず何の価値も無い(ボク流の言い直し)と強く批判していたのに心を打たれたものだ。
論の中で大衆に寄り添って生きた別種の知識人の生き方を称賛していた影響かどうかは自分ながら不明ながら、教員として生徒や学生に伴走することをモットーにしたのはご存じのとおり。
老化した今はゼミに釣りに呑みにと、卒業生を中心とした仲間たちに伴走してもらっている、感謝!

(追補) 
 シールズを始めとする若者たち(や全共闘以降の知識人たち)の国会デモにはとても希望が持てたものの、ボクと同世代の非若者たちがデモ参加するのには同調できなかったというのが正直な気持。
危機意識に耐えられずに参加するという心裡は頭で理解できるものの、あの時代にやり残したことがあるように同じことをくり返す心境には賛同しかねたからだ。
リュウメイ風に言えばあの時代に「挫折が残っていない」ところまでやらなかった代償として、今頃になってデモ参加かい? 
自分なりの「創造」を見出すまで己を追い込まなかったのかい?
という類の問いを発するのは抑えたけれど、全共闘運動退潮期にデモ参加した不毛な感覚からの疑念は忘れることができなかった。