「ゴッホとゴーギャン展」  「喩としてのマルコ伝」(吉本隆明)

明後日18日が最終日(だから混雑するの)だと気付いたので、今日上野の都美術館に行ってしまった。
1600円のところが65歳以上は1000円だと言われてビックリ喜び!
今までの老人特典は100円引きの記憶しかない、さすが都だ、と思ったらそれだけの税金払ってるから当然だと思いなおした。
しかし窓口で「65歳以上の方は割引きになります」と言われた時は、見た目で老人と判断されてしまい「もはやこれまで!」と痛感、淋しいかぎり。
「もはやこれまで!」は宇都宮大学の同僚だったリショーさん(米田利昭先生)が退官の際に、自らを落城寸前の城主(家老だったかな)に喩えて発した名言、ウマい!
ともあれ今ごろゴッホゴーギャンか? という自虐もあって気持が向いて行かなかったため、今日まで放置していた次第。
ゴッホは「カラスのいる麦畑」、ゴーギャンは「私たちはどこから来て〜」(作品名は共に不正確)という代表作の現物を観て以来、それで終りという意識があったのが今回放置していた主因だろう。
結論はおススメします! といったところ(ゼミに参加する人には明後日しかないけど)。
特にこれといった作品が展示されているわけではないけれど、ゴッホの初期自画像には圧倒されたナ(暗〜い絵)。
なんだかゴッホは何を描いても自画像に見えてきたけれど、すべてゴッホの精神の表現として訴えてくるからかな?
それに比するとゴーギャンは何を描いても対象を離れて己の創造世界に見えてくる。
両者とも写実が身に付いてないシロウト画家だという共通点に、文学の問題が重なって考えさせられた(のでとても面白かった)。
ド素人のルソーは大嫌いだけれど、この2人の素人は写実を超えた迫真的な己の世界を打ち立てているので、感動させられてしまう。
2人に限らず同時代の画家にまで広げて展示されているので、2人が影響した画家と影響を受けた画家とのつながりがとても分かりやすいのも収穫。
質より量の展覧会だけれど、観ておいてほうがいいとススメます。

行き帰りの電車内で吉本隆明と小川国夫の対談「新共同訳『聖書』を読む」を読んでいたら、吉本の「喩としてのマルコ伝」を思い出させられて焦った。
帰ってから先ほど探し出して開いたら、読んだ形跡があるのに内容が全く思い出せない。
ナオさんからのメールに吉本の「最後の親鸞」を読んでいるとあったので、「喩としての〜」と一緒に収録されている「親鸞論註」も読もうと思って開いたらこれも呼んだ形跡が明らか。
「マチウ書試論」を最初に読んだのは学生時代だけど、「論註と喩」を読んだのはいつだか覚えてないのと同様、中身も覚えてないのは情けないなァ。