ハルキ・その2  「騎士団長殺し」  一人称と三人称  漱石文学

新聞で今月の文芸誌の宣伝欄を見たら、4誌全部に「騎士団長殺し」についての論が掲載されている。
それが無いと売れないという判断からどの雑誌も載せざるをえないのだろうけど、こういう「同調圧力」はたまらなくイヤなもンだ。
国語教科書でも、ほぼ全部の会社が「羅生門」や「こころ」を採録しているのも気持悪い、というかツマラナイ。
桐原書店でも当初は2種類作っていたので「羅生門」の代わりに「蜜柑」を、「山月記」の代わりに「名人伝」を載せてもらったことがあったものの、「こころ」の代わりに「それから」をという案は否定されて残念な思いをしたことがあった。
「こころ」無くしては教科書として採択されない、という出版社側の判断からだ。
駅舎に典型的に現れているように、どこ見ても同じ風景というのは味気ないものだけど。

4月2日の朝日にハルキのインタビューが載っていた。
新作のあらすじも載っていたけれど、全然興味が湧かない。
でもけっこう関心が持てたのは、新作では一人称に「私」を使っていると語っている点だ。
この作家は一生「僕」でしか書けないのかと見くびっていたものの、とうとう「私」と自称する成熟した「僕」の視点から語れるようになったのかという興味である。
 《ただ「僕」からは離れようと。「私」という新しい一人称になって、主人公のある種の成熟を感じています。》
またちょうど宇都宮大学で開催された漱石シンポジウムに合わせて、以前教科書用に書いた「漱石文学における一人称と三人称」を再考していた矢先だったので、ハルキ文学における「人称」問題にシンクロしたわけである。
 《「ノルウェイの森」をリアリズムで書ききったのが転換点。そのあとの「ねじまき鳥クロニクル」で、リアリズムと非リアリズムのかみ合わせが、初めてうまくいった。》
ノルウェイの森」はリアリズムだはあろうがエンターテイメントまで落とし過ぎたと思うものの、漱石におけるミメーシス(現実模写)という問題も考えていたので、この種のハルキの発言も気になるのである。
とはいえ前作「色彩を持たない多埼つくると、彼の巡礼の年」もまだ1行も読んでない身なので、「騎士団長殺し」は4・5年先にならないと読むまでには至らないだろう(100円にまで値下げされてからだから)。
ハルキといえば出ると同時に読みたがるハルキストの心境は全然理解できないけれど、ハルキ文学の行程と手法の模索には興味があるので読むことになるだろう。
もちろん潔癖にハルキを拒否し続けている人たちの見識は尊重しているつもり。