大学クラス同窓会  武相荘  白洲正子・次郎  小林秀雄

12日は大学入学時(1968年)の仲間の集まりでマチネ・ソワレの部それぞれ6名(1名が入れ替わり)で愉しい時間を過ごした。
昨秋計画されたものの、松山で弁護士をやってる仲間が仕事のために参加不可となり、直前には別の仲間が孫の世話を引き受けざるをえなくなったというのでドタキャンした。
両親の都合で孫の世話をするために参加できなくなったとは、往年の全共闘戦士も人並みのジンセイを送っているということだけれど、孫の相手で来れなくなったのがクラスで一番の「エエ格好しい」の男だったので笑える。
マチネは武相荘(ぶあいそう)でオシャレな弁当を食しながらビールやワインを呑んだけれど、武相荘とは白洲正子・次郎夫妻が長年住んだ住居を改装した家屋(入場料1050円は高過ぎ!)。
道に迷って通りがかりの人に聞いたけど、聞いた3人とも武相荘を知らなかったのは驚き。
いちおう註しておくと、白洲次郎の実兄の息子と小林秀雄の娘が結婚してできたのが白洲信哉であり、信哉がヨチヨチ歩きの頃の手を引いている小林秀雄の写真は旧全集にも載っている。
たくさん刊行されている正子のエッセイや趣味が小林の影響下にあるのは、よく知られているとおり。
次郎はサンフランシスコ条約の際に、吉田茂に演説を巻紙に書くように勧めたというエピソードなどで知られている(以前古書店でゲットした『プリンシプルのない日本』(新潮文庫)と今読んでいるけどオモシロい)。
次郎・正子や武相荘などは昔Eテレの日曜美術館で観たけれど、やはり実物を目の前にすると伝わる迫力が違う。
でもボク等はほとんどの時間は飲食とバカ話に費やし、これが実にオモシロくてくつろげたものだ。
大したことを話していたわけでもないのに、絶え間なく盛り上がったまま時間が過ぎていくのは安逸感そのもので、入学以来の半世紀の経過が全然意識されないのも不思議だった。
ソワレは5時に始まったのだけれど、何と解散できたのは10時をとうに過ぎていたのは楽しすぎて別れ難い気持を共有していたためだった。
バカ話の中でも一番驚いたのは、今回の幹事で武相荘近くに住んでいるナル君(TBS社員を全うした)が、学生時代に三里塚闘争(警察の機動隊にも死者が出た)というもっとも危険な所に参加したことがあると聞いた時。
学生時代はクラスの全共闘には参加せず、民青(日本共産党の指導下の学生組織)たちがストライキを解除しようと教養部の全クラスで賛否の選挙を実施した際に、ナル君たちが現れてボク等に賛同してくれたお蔭でクラスとしてはストライキ続行が過半数を取れたのは忘れない。
学生時代から大人しいマジメな青年のイメージだったナル君が、まさか三里塚闘争にまで参加していたとは知らなかったから、久々に現れて仲間に加わってくれたのは驚きであり喜びだった。
当時のことを書き始めたらキリが無いので擱筆するけど、43LⅢ9D(昭和43年入学・文科Ⅲ類フランス語クラス)の全共闘グループの自称が「ケジラミ集団」であり、民青などストライキ反対派のグループを「ナメクジ党」と呼んで嫌悪していたものだ。
なぜ「ケジラミ集団」(ひらがな表記だったかな?)と自称していたのか、当日の話題にもなったけれど誰もキチンと説明できなかったのは残念、半世紀も前のことだもンな。
ちなみに(進級試験を拒否して留年したら44年に入試が中止されたので45生のクラスに落とされたけれど)45LⅢ9Dは「水虫集団」を名乗っていたけど、内田樹もその1人。