松本清張「父系の指」

清張を研究したいというテイミンさんが、発表作品を「或る『小倉日記』伝」から「父系の指」に変更したのは結果的にお手柄だった。
両作品を読み返した印象では雲泥の差があり、前者は確かに清張としては抜きん出たレベルの作品だと思ったけれど、面白そうな論点が見出しがたいので「父系の指」の方が可能性があるということ。

作品としては劣るものの「父系の指」にヴァリアントがあったとは知らなかった(昔立大院でも取り上げた記憶があるけど、その際にはヴァリアントは話題にならなかったと思う)。
お蔭で伝えたい(話題にしたい)大事な問題が提起しやすく楽しめた。
初出では主人公名が「宗太」という三人称で語られていたものが、初刊本では「私」という一人称に変更されているのは、清張も文学的な問題を察知する能力があったということだろう。
この種のヴァリアントで想起されるのは、「罪と罰」が当初一人称で語られていたものを、のちに現行のようにラスコーリニコフという名が与えられたという例だ。
小林秀雄「『罪と罰』について」(Ⅰだと思うがⅡかもしれない)における考察が役に立つかもしれないが、レポのマキさんは《主人公の生に深みを持たせるための仕掛けという意図》を読み取ってみせた。
さらに一人称への改編は《父像をよりリアルに描き出す》にために役立っていると説いてみせ、問題提起とそれを解く力量を示したのは貴重(ムズカシイ問題だけど、もう一歩深めてもらいたいけれど)。
(「罪と罰」と「金閣寺」との差異についても補足したけれど、ここでは割愛。)
マキさんの発表(レジュメ)には「なぜ、父なのか」が問われているが、これはとても大事なことでテクストを読みながら「なぜ」を屹立(きつりつ)させることから《読み》が始まると言える。
問いの無いところに読みは発生しない、ということ。
さらにマキ・レジュメには《「私」は、この物語世界のすべての体験をしたのちに買いているはずである》という大事な指摘があるが、テクストを読む際には必ず《語りの現在》を押さえることが大事だ。
テクストにおける《語りの現在》を表す言葉を読み落とさないことが肝心で、このテクストでは「今」という語であるが、その「今」がいつを指すのかを明確にすることだ。
リーチ君の質問と自答のように「九」章の「それから二年ばかりたった」というのが「今」に当たる、ということになろう。
清張ならすぐ終わるかと思った議論が意外に長引いたのは、前回の龍之介と同じくレジュメと参加者の熱意のお蔭と言えよう。

次回は野間宏「顔の中の赤い月」、続いて順不同で吉田修一「Water」・志賀直哉小僧の神様」・太宰治「竹青」など、村上春樹は「中国行きのスロウ・ボート」か。