吉田修一(その2)  志賀直哉  次男坊の文学

志賀直哉修論を書こうと考えている留学生が、巴金と志賀とを「次男坊の文学」として括りながら論じると言うので、志賀を次男坊として位置づけるのは無理だという私見を伝えた。
彼女が参照した、志賀文学を次男坊と理解する先行論を読んでみたけれど、やはり強弁ばかりで困ったものだ。
その点はいくらでも論じる用意があるけれど、「暗夜行路」における謙作は兄(信行)がいるから次男だと位置づけるのは誤りであり、信行は「和解」に登場する叔父に相当する存在と見るべきだというのが私見のポイントである。
信行を「総領の甚六」とした上で謙作を次男とするのは、漱石の「それから」や「坊っちゃん」に通じるけれども、そこから謙作的在り方を次男坊とするのは限定し過ぎであろう。
父親の言うことを聞かずに我がままを通すから次男坊だと言うのは強弁であり、長男は皆「甚六」的だとするのは無理がある。
それはエディプスの物語を生きるのが長男の特権ではないのと同様だ。
ともあれここで記しておきたいのは、志賀について以上のようなことを考えていたせいか、吉田修一の「water」こそが次男坊の文学だと感じたことだ。
主人公の陵雲が夭逝した兄・雄大に同一化する(アイデンティファイ)志向性が、失われた長男の位置に自己を位置づけようとする次男坊の気持に見えてきたということだ。
最後の息子』に収録されている3作品(サッと読んだだけながら)に共通するのが兄と弟の物語であるように受け止めたのだけれど、どうかな?
大江健三郎には兄と弟がよく登場するけど、大江の場合は兄(長男)の立場だネ。