徳田秋声「足袋の底」  ジュネットの「焦点化」  表題の意味

リーチ君がけっこう刺激的な発表をしてくれたので、とても面白かった。
秋声についてはほぼシロウトなので、秋声テクストは「倒叙法」の形が多いという指摘には教えられた。
過去時制と現在時における出来事が往還するということは分かったが、それがどういう読みにつながって行くのかが説明できていないのはザンネン。
例えば関谷一郎の「和解」論(志賀直哉)では、出来事の往還が時間を重層化した厚みを創りだし、主人公の変化(成長)を保証していると論じている。
秋声の場合はどういう効果を生み出しているのだろうか? 気になるところ。

もう1つ、リーチ君のレジュメの売りはジュネット言うところの「外的焦点化」的叙述をあぶり出したこと。
一見する限りでは「焦点化ゼロ」(従来の分類による客観小説)ではあるものの、ボクも気になった
《爺さんの姿が、(中略)元の家の引附けのなかに見られた。》(「三」)
《彦爺さんの、日和下駄ばきの姿が、そこを通つて行つた。》(「三」)
などの数ヶ所を、リーチ君は「外的焦点化」の箇所としてまとめつつ、(レジュメの意味付けを自己否定しながら)該当箇所直前が過去の幅のある時間帯(マキちゃんの分かりやすい説明を利用すれば「過去完了」=幅のある時間)であるのに対して、「外的焦点化」の表現は「過去」の1点を印象的に切り取っているという説を立てた。
とても面白い分析ではあるけれど、他の箇所にも「焦点化ゼロ」的表現があってそれ等には当てはまらないので練り直さねばならないと思う。
もちろん1つのテクスト(特に長編の場合)には数種類の焦点化による語りが混在すること自体は当然であろうが、「足袋の底」のような短編に「外的焦点化」まで読み取ろうとするのは無理ではないかな?
「焦点化ゼロ」は登場人物すべてを内(心中)からも外からも語れるのであるから、「足袋の底」は基本的には「焦点化ゼロ」でありつつも、中心人物である彦爺を外から語る場合に特別な語り方をすることがあり、それが時に効果的だというのが1つの理解だろう。
でなければ(もう1つの理解としては)「足袋の底」は基本的には彦爺に「内的焦点化」した語りながらも、時にそこから逸脱することがあり、それがリーチ君の言う「外的焦点化」に当てはまったり、彦爺さん以外の人物にも「内的焦点化」されることがあるというものであり、個人的にはこちらの立場かな(「暗夜行路」には著名な末尾における焦点化の転換以外にも、逸脱があるように考えている)。
「足袋の底」は彦爺を中心化して、例えば彦爺から離れると「行く」と語り・近づくと「来る」と表記している点からも、基本的には彦爺に「内的焦点化」していると理解して良いのではないかと思う。
ガラにもなくジュネットを引き合いに出して云々(「うんぬん」と読むが、安倍晋三は「でんでん」と読んだそうだ。麻生太郎ともども日本の首相は無知《バカ!》なまま暴走するだけということ。)してしまったが、ジュネットに詳しい方の判断・ご教示ねがいたいものだ。
もう1つ、表題の「足袋の底」をどう読むかをリーチ君は用意できなかったそうで、角川の「日本近代文学大系21」で注釈を担当している榎本隆司氏もスルーしているという怠惰ぶり。
私見では2度にわたって女に「底」なしに貢いで痛い目に遭ったことのある彦爺も、さすがに3度めに遭わないように足袋の「底」にカネを隠しておいたという話として読んだのだけれど、これもご意見を頂戴できれば嬉しいかぎり。