「わたしを束ねないで」  新川和江  現代詩文庫  関谷一郎の研究法

下ネタだけでは名誉にかかわるので、イイ言葉も1つ。
朝日新聞では毎日「折々のことば」で鷲田清一さんがガンバッテいるけれど、毎日じゃあタイヘンだろうナとつくづく同情する。
前の大岡信の時のように詩歌に限れば楽だろうけど、そういう縛りが無いだけに鷲田さんのご苦労は十分に察せられる。
だから鷲田さんが(苦し紛れで?)詩歌から選んでもやむを得ないと納得している。
資料が所在不明なので今年のいつだったかわからないのだけれど、「わたしを束ねないで」という詩が紹介されていた時は、我が意を得たイイ言葉として同感するとともに、作者を勘違いしていたので己がボケぶりに改めて驚いた。
いかにも茨木のり子の発想だと思っていたら、何と新川和江だった。
新川の作品は桐原書店の教科書に「ふゆのさくら」という平仮名だけの詩を推薦して載せてもらったことがあるのに、茨木のり子と取り違えていたとは面目ない限り。
表題と第1聯(連)は「わたしを束ねないで」であり、第2聯が「わたしを止めないで」・第3聯が「わたしを注(つ)がないで」・第4聯が「わたしを名づけないで」・最終の第5聯が「わたしを区切らないで」で始まる。
どれも魅力的なフレーズでステキな詩だろうと察してもらえるだろうが(殊に第1・4・5聯が素晴らしいの)、長いから引用はできないので現代詩文庫(思潮社)の「新川和江詩集」等を参照してもらいたい。
チョッと前までは1200円の定価だったけど、優れた詩をたくさん読めるのでこのシリーズはお安いものだ。
新川では「ふゆのさくら」同様に平仮名だけの「なつのひょうが」もイイし、平仮名だけではないけど「すいせん」もイイ。
「ミンダの店」はエピグラフシュペルヴィエルの詩が置かれているが、昔(飯島耕一との関連で?)読みかじったシュペルヴィエルの世界を彷彿とさせるので見事。
代表作の「土へのオード13」は長いので読み通すのがタイヘンだけど、これを機に読み始めたところ、素晴らしい!

@ 退職後の楽しみにしていながらも、なかなか実現できていないものの1つに詩歌の鑑賞があり、先日思い切って山之口貘詩集(現代詩文庫以外にも講談社文芸文庫もある)を読み始めたところ。
  各種の文庫だけでなく、現代詩文庫も30冊以上あるのでタイヘンな楽しみ!

「わたしを束ねないで」が特に印象に残っているのは、ボクの生き方・研究の立場を一言で表しているからだ。
例えば昔立教の大学院の授業で、博士課程後期の院生ながら無料でティーチング・アシスタントのようなことをしてくれていたヒッキー君(現・学大教員)が、思想・研究の立場をまとめた略図を後輩たちに配布してくれていた時に、「関谷センセイは入ってませんが」と申し訳なさそうに付していたのを忘れない。
他と一緒に括(くく)れないことがボクのモットーだから、ヒッキー君の言葉は讃歌として受け止めていたので遠慮は不要だった次第。
大まかに言っても実証派でもなし、理論派でもなしで括るのに困るのがボクの研究なので、著書からしても小林秀雄と『シドク』の「和解」論などはそれぞれが実証派・理論派の双方から評価されたことからも分かるだろう。
自分としては、小林論は小林の実生活を完全に切り離してテクストから読み取れるものだけで構築したものだし、「和解」論も同様の立場ながらも文化人類学などの知識などをチョッと援用してみただけの違いだと思っている。
基本はテクストを緻密に読み解くということだから、小林論は小林のテクスト全体から小林という作家を読んだのであり、『シドク』の各論もそれぞれの作家・作品について他の追随を許さぬ《読み》を目差した結果の集成だ。
それぞれがテクスト(作品)と共にあるから、流行りの理論が色あせようが古びることなく作品と共に生き続けるはずだ(とイイね)。