安倍公房「手」

この欄、すでに記したとばかり思っていたら、まだだった(トシのせいか、考えたことは既に表したことだと勘違いしている自分がいてコワい)。
授業のテンションが下がってきたせいか、参加者が少なかったのは淋しい限り。
それでも留学生ながらリュー君のガンバリ突っ込みもあって、何とかサマになった感じ。
レポのカンナイ君があらかじめ木村陽子さんの「手」論を受講者に送ってくれていたとは嬉しい限り。
木村論を批判しながら自説を展開したいと言っていたカンナイ君が、そこまで手配してくれたていたのはボクの思い描いていた授業法だったので喜んだ次第。
大学院である以上、掌編ならその作品論もあらかじめ読んだ上で議論をしたいものだから。
院生の負担を考えると、そこまでの要求がしがたいので諦めていたけれど、今後はレポがたたき台にしたい先行研究を受講者に読ませた上での発表が望ましいものだ(というのはあくまでも理想だけど)。
カンナイ君のモチーフは、政治的な寓話として読まれてきた「手」から寓意を外して読む可能性を探ったものながら、ウマく運ばなかったのは本人が一番分かっているだろう。
モチーフ自体はとても貴重な発想なのだけれど、とても難しいことであるのは「手」の先行研究も示しているとおり。
今回は「手」論から寓話論として話題が拡大されたので、イソップがなぜ現代まで残っているのか? といった問題まで考えた。
安倍公房の時代なら、初期の開高健が寓意小説しか書けなかったものの、「裸の王様」でアレゴリー(寓意)からリアリズムに転換できた時に芥川賞が獲得できたろいうことは知っておくべきだろう。
「手」と同じ頃の時代を描いた小島信夫の「小銃」も紹介したが(銃つながりでもある)、小島の初期もアレゴリーが前景化していたことも視野に入れておいた方がいいだろう。
さらに倉橋由美子のデビュー作「パルタイ」は必読だろうし、後の「スミヤキストQの冒険」も知っていたほうがいいということを付け加えた。
共に共産党批判、あるいはマルキスト批判のアレゴリーとして貴重な作品であろう。