ネトレプコ(ソプラノ)の「アイーダ」  ゼッフィレッリ  ワーグナー  ストラビンスキー  ベジャール  グルベローヴァ

ネトレプコが主演初役の『アイーダ』(行進曲は有名)を放映するというので、以前録画してあったスカラ座の録画を消去してネトレプコを録画しているところ。
スカラ座バレンボイム指揮でゼッフィレッリ演出のものを消したけれど、ビデオでは第2幕中心に録画してあったので躊躇なく消去してしまった。
ネトレプコの方はムーティエ指揮ウィーン・フィルで今年のザルツブルク祭のもので、演出は知らない人だけどものすごくスッキリしていて見やすい。
というよりゼッフィレッリの方がゴテゴテし過ぎていて、見ていて疲れるものだった。
ワーグナー(楽劇)でもストラビンスキー(バレエ)でも、時代掛かった物々しい舞台は最初は圧倒されるけれど、やがてウットウシくなるものだと考え合わされた。
ワーグナーは同時代からゲンマン神話がかった舞台が続いたけれど、戦後息子のヴィーラント・ワーグナー兄弟の演出では舞台が極端に簡素(抽象的)になって話題をまいたものだ。
後で知ったのは、(ヒットラーも通った)バイロイトでも戦争で皆焼けてしまったから舞台装置や衣装を極端に簡素にせざるをえなかったということで笑えたナ。
それが画期的な演出として記憶されるのだから、皮肉というほかない。
ストラビンスキーの方は最初にベジャールの抽象的な演出・振り付けで3部作をナマで観てしまっていたので、作曲家と同時代に活躍したディアギレフのバレエ・リュス(ロシア・バレエ団)の展覧会だったかで「ペトルーシュカ」の映像を見た時は、逆にその着飾った具象性にビックリしたものだ。
ベジャールの「春の祭典」の映像・写真などは見たことがある人も少なくないだろうが、3部作は全てあのほとんど裸に近い恰好だけど、バレエ・リュスの方はむやみに重ね着しているように見えたほどだったから。
こういう文脈で見ると、かのゼッフィレッリの演出も時代掛かった過去のものと見えてくるというもの。
とはいえボクの知識はベジャール止まりなので、その後の新しい演出・振り付けは全く知らないで言っているだけの話。
日曜夜にNHKでバレエを放映することがあるけど、バレエ一般には興味が無いので最近の傾向は全然無知のままなので悪しからず。
ただオペラで時代を現代に移す演出法には賛同できないのは確か。
などと記しているうちに「アイーダ」が終って、去年のネトレプコのガラ・コンサートが始まった。
最初はオケだけで「運命の力」序曲というのも、あまりに「お約束」過ぎて失笑するナ。
でもネトレプコがチレア「アドリア―ナ・ルクルブール」のアリアを歌い始めたら「アイーダ」の時よりもグッと引き込まれる思い、やはり凄いソプラノでこの十数年ずっと話題の中心であり続けているのが理解できる。
デジャ・ヴュの感じがするから、これ再放送かもしれない(ということは録画済みだネ)。


最近読んだ池澤夏樹の連載記事(朝日新聞)に、一時代前に「一世を風靡(ふうび)した」ソプラノ歌手グルベローヴァが東北大地震の直後に嫌がる歌手や楽団員を説得して来日公演をしたと買いてあって驚いた。
(劇的なネトレプコに対して可憐なイメージの)グルベローヴァの声に惚れ込んで昔ナマ演奏を聴きに行ったのは覚えているけれど、彼女がそんな熱い人だとは知らなかったヨ。
震災をものともせずに来日したのは指揮者のズービン・メータ(以前ここに書いた)だけじゃなかったのだネ。
前振りのつもりでネトレプコのことを書いたら長くなり、(たくさん溜まっている)本題の何につなげようと思ったのかも忘れてしまった。
これはこれで終わらせよう、眠くもなったし。