昭和文学会  仲井真建一  辺見庸「1★9★3★7」  竹田志保の近著  庄司薫の4部作

久しぶりという印象で参加したら、少しだけ年下の研究者の面々に会えて嬉しかったけれど、気付いたらボクより年長の方が見当たらなかったのは寂しかったナ、ホント。
それでも参加していた老若男女から「元気ですネ」と言われたのは、自覚している通りなので嬉しいものの、むしろ中川さんのように過労とストレス太りで覇気が無くなっているのが心配。
つくづく退職した立場の有り難味を覚えたネ。
学会を支えている研究者の皆さんが、トシヨリがよく来たという敬老の眼差しで声をかけてくれるのも嬉しいけれど、若い院生が挨拶に来てくれたのは驚き付きの悦びだったナ。
困るのは最近トミに進行している名前の失語感で、顔は覚えているのに名が出てこない。
困惑が通じるのか、相手から名前を言ってくれたので助かるのが例ながら、トシヨリは情けないものだ。
石井嬢は先日のヒグラシゼミに来た先輩の(?)清水クンを知らなかったのは意外ながら、立教院生の層の厚さなのかな。
長谷川嬢は「國學院の・・」と言われてすぐに名前が浮かんだけれど、見ていたらその後の質疑でシッカリ質問していた姿は「成長」を感じたものだ。
やはり1度発表すると自信が付いて、学会でも積極的な言動ができるようになるものだネ。
そう言えばどの発表に対しても、院生が積極的に質問・意見を述べていたのには驚いたナ、昔はなかなか院生の意見が聞けなかったものだったから。
とってもイイ傾向だと思ったので、仲井真クンの発表に対して質問をしたかったけれど遠慮して院生2人の質疑と仲井真クンの応答を大人しく聴いていた。
質問者にマイクを渡していたジッポ(竹田志保)がまた会務委員として活躍しているので驚いたけど、2期目とはいえ学会のために休む間もなく働き過ぎだろう。
それより博論を急げと言ったら、間もなく本になる博論については前にも何度か報告したと言われて面目無し、ボケの極みながら博論を10年以上も待ち続けた気分からの錯覚もあるネ。
実際は10年もかからなかったと思うけれど、そのくらいの実質も込められた著書になるはずだから皆さん、期待していただきたい(有名な翰林書房です)。
ジッポの本来のお師匠さんである菅本康之さんにも、これで安心してもらえるだろう。


さて立教院に非常勤で行っていた頃の受講生だった仲井真クンの、全国区学会へのデビュー発表を聴くのが今回のお目当て。
そのために作品をゲットしたものの、意外に多忙な身ゆえ上巻だけでさえ十分には読めてなかったのは残念。
心配や期待の両面どおりが現れた発表だったけれど、これで仲井真クンも自信が付いたと思われるので、これからの活躍が楽しみ。
内容は長くなるから別立てしよう。
和田会務委員長を始め複数の研究者から懇親会に誘ってもらったけれど、例によって今年くり返した酔余の失態を理由にお断わりして神田の古書店へ本探しに向かった。
主な目的は庄司薫の4部作で、吾ながら何を今さらなのだけれど、ラジオ放送大学の政治思想だったかで庄司薫の「赤ずきん」「黒頭巾」「白鳥」「青髭」という色つながりの4部作の内容を聞き、興味を覚えたからだ。
赤ずきんちゃん気をつけて」だけなら知ってる人は少なくないだろし、ボクらも学生時代に皆読んでいたものだけれど(元の名の福田章二とかいう名前で発表された「喪失」まで読んだ仲間もいたものだ)、それほど面白さを感じなかったので4部作という連続性も個別の作品にも関心が無かった。
何よりも全共闘が大活躍したした頃に、真っ向から全共闘を否定した丸山真男をモデルにした大学教授が登場するというのが面白そうだ。
中公文庫を置いてある古書店はあったけど、庄司薫は1冊も無かった。
三省堂に行って中公文庫の目録を見たら4部作は載っていたけれど、本は「赤ずきん」1冊しか無かったのは残念。
地元の本屋(増田書店と言ったかナ、住民である林淑美の新刊が出た時は通りに面したガラス窓にディスプレイされていた)で注文してみよう、絶版かな?
古書店で本を見ていたら突然声をかけられたのだけれど、これも若い(?)女声だったのは昔の学大助手だったキンタロー(旧姓本間千裕)だった。
この4月に大阪から戻ってきたという、相変わらず絵本などを描いたりしているそうで、その手の古書店に向う途中だったので軌跡的でラッキーな遭遇。
キンタローは学部生の頃からボクの研究室に出入りしていたユニークな存在だ。
それにしても数人の女性から声をかけられた珍しい日、後で大先輩から「女福」のイチローだと言われて納得したけれど、パソコンでジョフクを打っても「徐福」としか変換されなかった。
徐福は始皇帝から永遠の生を与える薬(?)を求めに派遣された男だということは、売れっ子作家になったボッキマン(松波太郎)の修士論文(一橋大)にも出てきたナ。
(ホントに長くなってしまい、これでは何度も補筆した辺見庸の作品みたいで恥ずかしい、と書けば根本的な作品批判が欠落していた仲井真クンへの不満が伝わるだろう。)